「つくる会」から「百田尚樹現象」へ
石戸:先ほど、新しい歴史教科書をつくる会の名前が出ました。僕は『ルポ百田尚樹現象』の第二部で、百田現象に連なる現象として、つくる会を取り上げました。百田さんのような攻撃的な発言をする人が右派の中から出てきた素地はどこで作られたのか。その決定的な転換点が、1990年代のつくる会だったのではないか、と仮説を立てて取材したんです。
つくる会のメンバーだった西尾幹二さん、藤岡信勝さん、小林よしのりさんは、歴史教科書の「従軍慰安婦」の記述に違和感を覚え、歴史問題を問い直さなければならないと考えた。それで、朝日新聞や文部省といった権威を設定し、彼らに対抗し、反朝日・反リベラルという敵を作り上げるやり方をとった。今のネトウヨ的なもの、あるいは安倍政権や百田さんを支持する人たちにつながる源流は、このつくる会にあったんじゃないかと。
江川さんは慰安婦問題などの歴史認識の問題について、国際法学者の大沼保昭さんとの共著『「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて』を出されているので、つくる会についてうかがってみたいと思っていました。当時、江川さんはまさにオウム真理教の取材でお忙しかったと思いますが、つくる会をどうご覧になっていましたか?
江川:そうですね。当時はオウム裁判の傍聴で手一杯でした。だから、つくる会については、メディアで読むくらいで、きちんとフォローしていなかったんです。教科書問題はつくる会が登場する以前にもありましたが、あれだけ大衆を巻き込む現象になったのは初めてでしょう。しっかり観察しておかなかったのは、今思うと不覚だったなという思いです。
石戸:とはいえ、小林よしのりさんとの接点はあったんですよね。小林さんはつくる会で活動し始める前は薬害エイズの問題や、オウムの問題を書いていました。オウムについての小林さんの活動はご覧になっていた。
江川:石戸さんの本でも、小林さんがオウムについて語っていますよね。小林さんは「だんだんと運動にはまっていき、集団の中に溶け込んでいく左翼の感覚と、オウムの信者がオウムの集団の中に溶け込んでいくのが同じだとわしは思った。つまり、どちらも個をなくしていき、集団に溶け込んでいく」と話しています。
しかし、これは私のオウムの認識とは全く違うんですよ。私の考えでは、あの頃のオウムの人たちは、集団に溶け込んでいたんじゃなくて、麻原個人に溶け込んでいた。だから、左翼の感覚とオウムが同じだというのには非常に違和感を覚えました。