変わっていく母と対峙しながらも、町子さんを筆頭に、娘たちは敬虔なクリスチャンだった母を連れてイスラエルで聖地巡礼をしたり、介護施設を探したりと奔走する。そして1987年、貞子さんは天寿をまっとうした。91才だった。
町子さんもまた、その5年後、最愛の母の後を追うかのように、1992年5月に冠動脈硬化症による心不全で72才の生涯を閉じた。
「万が一の場合は、入院しないし、手術も受けない。家族による密葬と納骨が終わるまでは公にしないでほしい」
生前の町子さんは、周囲にそう伝えていた。
本人に告知こそされなかったものの、町子さんは胃がんも患っていて、胃を切除する手術を受けたことがあった。手術や入院を拒んだのは、そうした経験もあったのだろう。
長谷川町子美術館3代目館長で町子さんの作品を出版していた「姉妹社」の社員として半世紀近く彼女を支えた川口淳二さんはこう言う。
「町子先生の希望で、本当に家族だけの葬式でした。公表を控えたのは、亡くなったことをすぐ教えたら騒ぎになってしまうから。皆さんに迷惑をかけたくないという優しさからでした。お母さまも密葬だったので、それに倣ったのかもしれません。町子先生は高速道路ができる前から、車が空を走っている描写を漫画に描くような時代を常に先取りしている人。いまの“終活”を先取りしていたようにも思えます」(川口さん)
相続・終活コンサルタントの明石久美さんが指摘する。
「生前に自分の死に方や、死んだ後のことについて考えておく『終活』が世に広まったのは2009年頃のこと。1992年に亡くなった長谷川さんの生き方は、まさに先取り。経済的にも自立されていたので、遺志を残さずに死んでしまったら、家族に迷惑をかけるという気持ちもあったのでしょう」