安彦にとっては、長い1日だった。試合開始6時間前の朝7時に起床し、いつも通り朝食代わりのスープを飲んで、父親の軽自動車を借りてクラブ事務所へ。引退の日だからといって特別なことはしていない。クラブ事務所から会場となるニッパツ三ツ沢球技場に向かうチームバスのなかで瞑想をして、好きな音楽を聴いて心を整えた。
会場には今季最多の1109人の観衆が集まった。そのなかには安彦の両親、兄弟、友人たち、多くの知った顔があった。そこかしこで聞こえてくるのは、2020年夏に安彦が特集された人気バラエティ番組『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日系)に出演した際の話や、先ごろ発売されたばかりの安彦の初著書『おっさんJリーガーが年俸120円でも最高に幸福なわけ』(小学館)に関すること。スタジアムに集まったファンのほとんどの目当てが安彦考真の最後の雄姿だったといっても言い過ぎではないかもしれない。
試合後、16時半からスタジアム内でオンラインの引退会見に臨み、安彦が会場の外に姿を見せたのは17時過ぎ。試合終了から2時間以上が過ぎ、すでにチームバスとともに他の選手は会場をあとにしていた。辺りはすっかり陽が落ちていたが、気が付くと寒空のもと出待ちをしていたファンのなかで安彦は普段と変わらない様子で溶け込んでいた。
なかには水戸ホーリーホック時代から安彦を追いかけ、お手製の写真集まで作ってきた熱心のファンの姿も。彼ら彼女たちと、短い時間ながら一切の壁を作らず楽しい時を過ごす、それは安彦が願い続けてきた光景でもあった。
安彦はピッチでのセレモニーで、Jリーガーになったときに「実質0円で何がJリーガーだ!」「ふざけんな! オマエなんて便所でも掃除してろ!」と言いだすアンチが現れ、さらには「ロン毛で髭が濃く、肌が黒い」とその風貌をネタに胡散臭いなどと誹謗中傷が絶えなかったことを自虐的に笑い話に昇華した。そんなことができたのも、それ以上に彼の懸命にトライする姿を見て、あと押しする仲間が増えていたからであろう。
最後は、引退後の格闘家への転身を明らかにし、また周囲を驚かせた。目標は2021年12月31日にさいたまスーパーアリーナで行われるであろう総合格闘技イベントRIZINへの出場だという。
「僕は自分の後悔を取り戻したいと同時に、どこか閉塞感のある社会やスポーツ界をシンプルに変えたいと思ってJリーガーを目指しました。でも、社会に声を届けるには、もっともっと僕自身が生き様を見せて、仲間を巻き込んでパワーを付けないといけない。そのためには、やっぱり挑戦者であり続けることだと思うんです。そこでどうすれば、いちばんわかりやすく生き様を見せられるか考えたときに、格闘技かなと思ったんです。体は確実に痛いし、過酷ですから。別に誰かと闘いたいわけじゃなく、どこかどんよりした社会を打ち壊したいだけなんです」
とはいえ、ほとんどケンカをしたことがなければ、もちろん格闘技経験もゼロだ。RIZINへの出場もオファーなどがあるわけではない。