首相の専権事項である「解散権」は、選挙を恐れる政治家たちを与野党問わず押し黙らせる強い力を持つ。しかしそれゆえに、“伝家の宝刀”を抜き損ねた総理は、恐るるに足らずと見なされて求心力を失い、レームダックと化していく。菅義偉・首相は自らも気付かぬうちに、その道を歩み始めてしまったのではないか。過去の「解散できなかった首相」と同様に──。
7年8か月の長期政権を保った佐藤栄作元首相はこんな言葉を残した。「内閣改造をするほど首相の権力は下がり、解散をするほど上がる」。
安倍前首相が佐藤内閣を超える長期政権を維持できたのは国政選挙で5連勝したからだ。
逆に「解散できなかった首相」の末路は厳しい。自民党の歴史を見ると、「伝家の宝刀」を抜こうとして断念したのは三木武夫・元首相と海部俊樹・元首相の2人だ。
三木氏は田中角栄首相が金権批判で退陣した後に“クリーン政治”を掲げて就任。だが、ロッキード事件で田中氏が逮捕されると、自民党内から「検察を動かして政敵を逮捕させた」と批判を浴びて激しい倒閣運動が起き、解散を決意する。当時、共同通信の自民党担当記者として政局を取材した政治ジャーナリスト・野上忠興氏は言う。
「解散するには閣議決定が必要です。三木総理は閣議(1976年9月10日)に解散を諮ったが、15閣僚が署名を拒否した。それでも、伝家の宝刀を抜こうと思えば反対する閣僚を罷免して自分1人で兼務し、解散・総選挙を打つことができる。しかし、三木さんは自派閥の議員たちからも反対され、決断ができなかった」
結局、三木内閣は衆院議員の任期満了選挙(同年12月)に追い込まれ、敗北して退陣する。
1991年、今度は三木氏の「弟子」だった海部首相が同じ状況に立たされた。看板政策だった政治改革法案(小選挙区制導入)が自民党内の反対派によって廃案の流れになると、海部氏は党の緊急幹部会議で「重大な決意で臨む」と解散の決意を語る。
だが、自民党最高実力者だった金丸信・竹下派会長が、「重大な決意という以上、当然、解散やったらいいじゃないか」と否定的なニュアンスで突き放すと解散を断念。求心力を失った海部首相は、その後も解散できないまま自民党総裁任期の満了で総辞職に追い込まれた。