──これも誰もが「自分らしく生きられる」リベラルな社会になったことの必然の帰結ということでしょうか?
橘:「人種、民族、国籍、性別、身分、性的指向など本人の意志では変えられないものを理由とした差別は許されない」というリベラルの理念は、全体として社会の幸福度を引き上げましたが、その一方で「正義」の基準を明確化したことで、誰にでも「正義の鉄槌」を振り下ろす機会を与えました。
やっかいなのは、徹底的に社会的な動物である人間が、不正を行なったと(主観的に)感じる相手に制裁を加えると脳の報酬系が刺激され、快感を得るように進化の過程で「設計」されていることです。これにSNSなどのテクノロジーが加わったことで、自分を「絶対的な善」とし、相手に「絶対的な悪」のレッテルを貼るキャンセルカルチャーが手に負えないものになってしまった。
リベラル化を人類にとっての光だとすれば、光が強ければ強いほど影も濃くなります。これまでリベラルな知識人は影の部分から目を背けてきましたが、2016年のイギリスのEU離脱やトランプ大統領の登場によって、影の部分から異形の者たちが現われる不都合な現実を認めざるを得なくなったというのが現在の状況でしょう。
「デジタルタトゥー」と「忘れられる権利」
──身を守るにはキャンセルされない立場にいるしかない?
橘:そうですね。リベラル化の大きな潮流は今後も変わらないでしょうから、個人や企業にできることは、大衆の「正義の鉄槌」が自分のところに振り下ろされないようにマネジメントすることだけです。
インターネットの大きな問題は、いったん刻印された「デジタルタトゥー」を消すことができないことです。一部には「忘れられる権利」を主張するひとたちもいますが、そうすると「小児性犯罪の記録も忘れられる権利に入れるのか?」という反論が出て、収拾がつかなくなる。
将来は、採用にあたって会社側が応募者のネットでの評判を調べ、トラブルになるリスクがないかを事前に確認するようなるでしょう。その結果、小学生や中学生のときの友人や異性とのトラブルを理由に採用を断られることが起きるかもしれない。この論争に唯一の答えはないので、子育て中の親は、何気ないツイートが人生を破壊してしまうこともあると子どもに教え、ITリテラシーを身につけさせるしかないのではと思います。
問題をさらに複雑にするのは、本人になりすましてツイートするボットや、動画までも“ディープフェイク”で巧妙に捏造するテクノロジーがすでに登場していることです。そうなった場合、自分の“無実”を証明することはきわめて難しくなる。もっとも、これを逆手にとって、不都合な動画をネットにアップされたときに、「これはディープフェイクだ」と言い逃れる政治家なども出てくるかもしれませんが。