秋山監督は、新卒入社したテレビ朝日ではスポーツ局に配属。当時、バブル。テレビ局はとりわけ体育会系な業界だった。
「右も左も分からない中で、キツくて。入社1年目の夏、自律神経失調症になり、救急車で運ばれたんです。それでもう現場には戻れないと覚悟していたら、先輩が、『熱闘甲子園』のディレクターをやれと。一度倒れている僕にできるのか、と心配する人も多かったんですが、先輩は、過酷だけど得るものも多い番組にチャレンジし、もしそこでダメだったら諦めがつくという考えでした」(秋山監督。以下「」内同)
1981年からスタートした『熱闘甲子園』は、その頃、試合のハイライトを紹介するだけでなく、選手はもちろん、父兄や応援団など、試合にかかわるすべての人を特集するようになっていた。秋山監督は、「いろんな方と触れ合うのが本当に楽しくて、生きていることを実感できた」と振り返る。
「高校野球は、“勝った”“負けた”だけではないんですよね。試合の数だけ敗者がいて、勝者は1校。負け方を学ぶところだなと思ったのを覚えています。
球児たちは勝つためにひたむきに努力して、ブラスバンドは大汗を流しながら応援する。みんながものすごい熱量で心をひとつにして、目標に立ち向かう。そして僕も、自分が作った番組を“いいね”と言ってくれる人がいた時、その世界の一員になれたと思えて……。ひと夏を越えると、何か自信がついていました。だから、高校野球は、僕を救ってくれたものなんです」
番組制作にあたっては、球場で刻一刻と変わる状況を前にしつつ、当日オンエアのための構成を考えなくてはいけない。あらかじめ想定したストーリーなんて、あっけなく壊れる。狙い通りにいかなくて当然だ。そのなかで、ブレないメッセージを伝えるためにはどうするか。その後秋山監督はドラマや映画を手がけることになるが、誰かの想いを伝える、という原点は『熱闘甲子園』にあると言う。
「試合に出るのも、ものづくりも、自分1人でできることではない。また、何事も柔軟に、臨機応変に、かつスピード感をもって決断していくというのは、すべてあの時叩き込まれました。
高校野球では、9回2アウトからのドラマも当たり前なんですよね。自分の思い描いたようにならない時に、『こうなるはずじゃなかった』と思うんじゃなくて、そうなったことを受け入れなきゃいけないし、じゃあ次はどうしたらいいのか、どういうふうにそれを伝える方法があるのか、常に考え続けなくてはならない」
先に決めつけるのではなく、さまざまな視点から、無数の可能性を探りながら見る。目の前のバッターだけを見ていたら、見えないものがたりがある。
「ひとつのセカンドゴロがあったとします。フルスイングでようやく打てた、喜びのセカンドゴロかもしれないし、一回の打席でもう野球をやめようと思っていて、その最後の打席がセカンドゴロだったのかもしれない。すべての背景には、誰かの想いが詰まっているんですよね」