1947~1949年生まれの団塊の世代が、「後期高齢者」となる。社会保障費の負担増などを懸念する声が多いが、“当事者”はどう捉えているのか。今年、75歳を迎える江本孟紀氏(野球解説者)、弘兼憲史氏(漫画家)、大和田伸也氏(俳優)の3人が集い、若き日によくあった「団塊の世代」ならではのトークを展開する──。【全3回2回目。第1回から読む】
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江本:僕は(がんの摘出手術で)胃と脾臓がないのに、なぜかモノを食べられる。手術後にようやく普通の人の2倍くらいの食事量に減ったんです。もともと人の何倍食ってたんだと(苦笑)。
大和田:僕らの世代は“食いしん坊”が多いですよね。常に人が多くて、とにかくしっかり食べておく習性が身についた。
弘兼:小学校の時、何クラスありました?
大和田:校舎を建て増しして7クラスから一気に15クラスに増えました。1クラスは50人以上。地元は福井県敦賀市で、当時の人口が5万人くらいでしたが、学校では教室にすし詰めですよ。
弘兼:僕は山口の岩国で、50人8クラスでしたね。どこ行っても競争。覚えてます? 大学受験の時に私大は軒並み倍率30倍ですよ。先生が“現役で入らないと来年はもっと受験生がいるぞ。死ぬ気でやれ”と言われて、必死で現役合格しました。江本さんはプロになるまで、凄い競争ですよね?
江本:高知商業は16クラスあって、1クラス58人でした。それでも野球部はひとつだし、監督も1人。何かを教わる機会なんてないので、とにかく隣の奴に勝つしかない。
──皆さんは高校まで地方で、大学から上京したという点も共通項です。
大和田:東京に出て最初に住んだのが田無。田んぼのそばに新築のアパートがズラッと並んでいましたね。どの部屋も2畳で、全部埋まっていた。
弘兼:地方から来た学生は3畳1間が多かったですよね。2畳は狭いな。
江本:僕は野球部の合宿所で6畳1間に4人でした。“牢名主”の4年生がいて、布団がびっちり。メシは老夫婦が作ってくれるんですが、最高のご馳走の時でさえ、薄い薄いカツフライが1枚だけ。
弘兼:いわゆる紙カツだ。