エグジット(フランス語圏支部)の年次報告書によると、2019年には合計352人の会員の自殺幇助が実現したという。そのうちの134人は「複数疾患を持つ要介護高齢者」で、122人の「癌患者」を上回っていた。要するに、死が差し迫っていない高齢者の自殺幇助の数が、本来の安楽死を遂げる要件を揃えた患者の数よりも多いことが証明されている。
日本人と欧米人で異なる「死生観」
かつて私は、スイスに渡った高齢女性2人の自殺幇助を、部屋の中で見届けたことがある。彼女たちも、「このまま、生きていても不幸になるだけ」との思いから、それまで幸福だった人生に終止符を打った。致死薬を体内に入れる直前、2人とも笑顔だったことを思い出す。
当時81歳だったイギリス人老婦は、自殺幇助を受ける前日、「これから先、私は苦しんで生きるだけ。幸福なまま逝かせてほしい」と口にした。思う存分人生を謳歌したからこそ、安楽死を選んだことは間違いなかった。
ゴダール氏や彼女たちのように、自らが望む死に方が叶えられることは、一見、美しい。世界で安楽死を認める国が増え続ける中、フランスも2023年の合法化を目指している。しかし、6か国で取材を重ねた私は、日本人の生き方(死に方)が欧米人のそれとは感覚が異なることを理解した。
私は、ゴダール氏の死に方を耳にした時、まるで『勝手にしやがれ』の主役ジャンポール・ベルモンド氏が演じた利己的な男の姿が重なって見えた。フランス映画界のスターだったベルモンド氏は、昨年9月6日、88歳の生涯に幕を閉じた。2001年に脳梗塞で倒れ、一時は仕事復帰を果たしたが、亡くなる数年前には「強い疲労」を訴えていたという。だが、ゴダール氏の盟友は、安楽死を望むことなく、自然死にこだわった。
6か国での取材の経験から、今の私に理解できることは、いかなる病であっても、人には人それぞれの生き方があり、死に方があるということだ。安楽死を理想と考える患者もいれば、そうでない患者もいる。医師の承認を経て、意図的な死を遂げる方法が悪いとは思はない。だが、安楽死を認めた国や、今後、フランスのように合法化を進める国などは、「法の拡大解釈」の問題と向き合わなくてはならない。
「死ぬ権利」という難しさ
昨年6月に安楽死法が施行されたスペインでは、すでに様々な問題が起きている。現在、調査中の案件で、詳細についてはまだ明かせないが、同法の想定外の事例が発生し、さっそく社会に混乱を招いている。安楽死法がある限り、いかなる出来事があろうとも、「死ぬ権利」がすべての法において優先されるという現実と危険性を、私は学ばされている。
日本はまだ、ゴダール氏のような利己的な死を共感し、尊重できる基盤が社会にはない。だが、そもそも安楽死を必要とする世になったのはなぜなのか、数十年前までは議論されなかったのはなぜなのかなど、考える必要があるだろう。そうすると、昨今、先進国で起きている多くの社会問題が自ずと見えてくる。
ゴダール氏にとって、自殺幇助は「尊厳ある死」だったのかもしれない。しかし、彼が選んだ安楽死を美化することは、少なくとも今の日本においては時期尚早ではないかと、私は思っている。
■取材・文/宮下洋一(在欧ジャーナリスト)