終戦から今年で78年。戦時を知る世代も高齢となり、その数は年々減っている。後世にどのように戦争と平和を伝えていけばいいのか──軍人の家系に育った音楽評論家・湯川れい子氏(87)と、これまで500人以上の元軍人・遺族にインタビューをしてきたジャーナリスト・神立尚紀氏(60)が、貴重な思い出と証言を交えて語り合った。【前後編の後編。前編から読む】
「桜花」発案者の戦後
神立:(湯川の次兄・湯野川)守正さんはフィリピン・レイテ島沖で敵艦隊への体当たり攻撃を内示されたものの、桜花輸送中の空母が撃沈され、出撃することはありませんでした。特攻兵器・桜花を発案したとされる大田正一という人物についてはご存じでしたか。
湯川:いいえ。神立さんがお書きになった『カミカゼの幽霊』、たいへん興味深く拝読しました。大田さんについては知りませんでしたが、兄も終戦後、地下に潜るようにとの指令を受けていたこともあり、とても感銘を受けました。
神立:守正さんとお話ししている中で大田の名前が出たことは?
湯川:それも一度もありませんでした。
神立:そうですか。それにしても守正さんが生きて帰ってきたときは驚かれたでしょう。
湯川:夜、米沢の家で突然顔を見たときは、腰を抜かさんばかりに驚きました。母はもしかしたら生きているのを知っていたのかも……。
神立:無事復員し、家族水入らずの平穏な暮らしが戻ったわけですね。
湯川:そうはいかなかったんです。兄がしょっちゅう夢にうなされて、夜中に汗だくで飛び起きるんですよ。「まだ行くな!まだ死ぬな!!」と叫んで。いまでいうPTSDのような状態でした。特攻に行く部下を見送る夢を見ていたのでしょうね。
神立:取材者である私にはそういった弱い所は一切見せず、最後まで軍人精神を横溢させていました。ひとたび出撃すれば搭乗員の命が絶対に助からない桜花についても「いまの日本にこれしかないんだったら、これを有効に使ってアメ公どもを地獄に叩き込んでやろうと思っていた」と話してくれました。本土決戦の準備で小松基地にいたときも、「もし敵が上陸してきたら、自分の部隊だけで敵の一個師団をやっつけてやるぞ」と非常に戦意旺盛な方でした。
湯川:いや、それも兄の真実だったと思います。ただ戦後に妹の私が見た兄は、本当に本当に苦しんでいましたよ。
神立:心に深い傷を負ってらっしゃったということですね。大田正一は戦後、名前や年齢を偽って生きたんですが、そういった思いもあったのかもしれません。
湯川:大田さんは残虐な兵器の発案者として白眼視されがちですが、戦況を考えると、あのような自爆兵器が開発された現実はわかると兄は言っていました。自分の乗る機の翼に火がついたら、もう敵機や敵艦にぶち当たっていくしかない。国やそこに住む家族を守ろうと思って戦っている人間にとって、それは仕方がない必然だったと。それが戦争だと。特攻は絶対に許されないことですが、大田さんが考えなくても、別の誰かが考えたんじゃないかと思います。