ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十三話「大日本帝国の確立VIII」、「常任理事国・大日本帝国 その9」をお届けする(第1413回)。
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一九一五年(大正4)一月、大日本帝国は第二次大隈重信内閣の加藤高明外相の主導の下に「対華二十一箇条の要求」を、駐華公使日置益を通じ中華民国の袁世凱大総統に提出した。その内容はすでに述べたとおりだが、日本人を中国政府の政治・財政・警察などの分野に顧問として「招聘させる」という、中国を保護国並みに扱った「中国にとっての屈辱部分」第五号はあくまで「希望条項」とし、しかも内容は公開せず中国にも秘密を守るよう要求した。
さらに問題なのは、日英同盟を結んでいるイギリスや中国の「門戸開放」を強く主張していたアメリカにも秘密にしたことだ。こういう場合は、事前に秘密裏に関係国に通知しておくものなのである。それがこのころの「帝国主義外交」の常識というか「仁義」なのだが、加藤外相つまり日本はそれを守らなかったということだ。
常識と言えば、保護国でも無い国に第五号のような過大な要求を突きつければ反発され絶対にうまくいかず、相手国との関係は徹底的に悪化するだろう、ということも予想できた。また「海千山千のストロングマン」袁世凱は、結局第五号の内容を公表し世界に非道を訴えたため、内容を知らされていなかったイギリスは日本に不信感を持ちアメリカは激しく抗議した。
これも外交の常識として事前に予測できたことだ。しかし、国内世論は逆に政府を強く支持していた。朝日、東京日日(毎日)を中心とした新聞(マスコミ)は袁世凱政権に対しては強硬姿勢を貫け、と国民を扇動していたからである。この扇動のなか、穏健派にして良識派の外務官僚阿部守太郎が右翼青年に暗殺されたことはすでに述べたとおりだ。
結局、イギリスも含めた諸外国の激しい反発があったため、あわてた日本政府は第五号を削除せざるを得なかった。しかし、それでは引っ込みがつかないと思ったのだろう、政府は第一次世界大戦がまだ終了せず欧米各国がアジアに手を出す余裕は無いと見たうえで、袁世凱に最後通牒を突きつけた。要求に従わなければ武力で解決する、ということだ。袁世凱もヨーロッパが平穏ならば欧米列強を味方につけ、日清戦争のときの三国干渉のような事態に持ち込めたかもしれないが、それも出来ず結局五月九日に最後通牒を受諾した。
この強硬な要求は現在「対華二十一箇条の要求」と呼ばれているが、このような言い方が固定したのはずっと後のことで、日本は第五号(七箇条)その他を削除したので実際に要求したのは十三箇条である。しかも後にワシントン会議でさらに三箇条削られ、最終的に残ったのは十箇条だけだった。逆に言えば、この十箇条については欧米列強も「日本の権利」として認めたわけで、最初からこれだけに絞っておけば中国はともかく英米はそれほど反発しなかっただろう。
中国が受諾した要求の主なものは、山東省のドイツ権益の日本による継承を認めること。旅順、大連、南満洲鉄道などの租借期限を九十九か年に延長すること。日本人の土地租借権と土地所有権を認めること。日本人の居住と営業の自由、中国政府は中国沿岸のすべての港湾と島嶼を他国に譲渡または貸与しない旨約束すること、などである。