【書評】『スメラミシング』/小川哲・著/河出書房新社/1870円
【評者】鴻巣友季子(翻訳家)
小川哲が書くと、どんな題材でもすごいSFになる。本書は神と宗教をめぐる短篇集だ。「七十人の翻訳者たち」は、なんと旧約聖書の翻訳版をテーマにした一篇。ヘブライ語の聖典を七十人の翻訳者がギリシア語に訳した「七十人訳聖書」を題材に、その社会背景と成立過程をたどる。
物語は、ヘレニズム時代のアレクサンドリアと、近未来2036年の東京とオックスフォードという2つの時間軸をもつ。古代のパートでは、大饗宴のさなか王がみなに謎かけをする。この七十人翻訳は、ばらばらに作業をしたのにすべての訳文が全くの同文になった。それはなぜか?という難問。神の御業ではなかったのか?
ヘレニズム期とは、世界史上初のグローバリズムが起きた時代だ。ギリシア語がいまの英語のような強い共通語となり、この翻訳聖書は、カナンの地を離れてヘブライ語が読めなくなったユダヤ教徒も使ったし、キリスト教徒たちはこれを自分らの布教に活用した。こうして七十人訳聖書は権威のお墨付きを得た初めての翻訳聖書となった。
旧約聖書は歴史書であり、それは物語の始まりでもあった。世界を変えるのはいつも物語だ。ヒストリーとストーリーの関係を暴く恐るべき一篇である。
この他、表題作の「スメラミシング」は、世界を変えたいと考える者たちが、SNSのカリスマの下に集うオフ会の物語。反ワクチン論者や陰謀論者たちに出会う主人公は、出口のない薄闇にいる。母の強い抑圧の下で、人生の「終電」を逃したように感じているのだ。
最終篇「ちょっとした奇跡」は自転をやめた地球の終末世界もの。巨大なノアの方舟のような二隻の船だけが地球を──一隻は昼を、もう一隻は夜を追いかけながら―巡っている。七夕のモチーフを変奏した美しい鎮魂歌だ。SFとは、いつかは死に向かう全ての人間のとてつもない哀しみに耐えるために発案された心の安全弁なんじゃないか。そんな風に思えてくる。
※週刊ポスト2024年12月6・13日号