野球殿堂入り祝福される米田氏(左は稲尾和久氏、右は金田正一氏)
「ボクの人生は悪いほう、悪いほうに転んだ。1965年オフには10年選手制度で巨人とのトレード話があったんや。でも、西本幸雄監督の反対で直前で不成立に。当時も(巨人は)給料が全く違ったからね。1961年オフにも王(貞治)とトレード寸前までいったが、阪急が拒否。巨人のユニフォームを着ていたら、人生は変わっていただろうと思う」
引退後にも人生の分かれ道があったとする。
「オリックスの一軍投手コーチだった1993年に土井正三監督が解任され、後釜はボクが年俸5000万円で3年契約を結んだんや。ところが土壇場で仰木彬になり、揉めましたよ。3000万円の違約金で手を打った。その後に仰木マジックとか言っているが、イチローを使うこともボクが決めていたんだから」
米田氏の言い分が事実なら、たしかに人生の岐路だったのかもしれない。
事件後の6月には、2歳年上で名球会の発足時メンバーである長嶋茂雄氏が亡くなっている。
「いい人生を過ごしたと思う。やっぱり巨人、読売やと思う」
米田氏はそう寂しそうに呟いた。
(了。第1回から読む)
※週刊ポスト2025年7月18・25日号