連載

【連載エッセイ】介護という旅の途中に「第28回 如月」

 写真家でハーバリストとしても活躍する飯田裕子さんによるフォトエッセイ。父亡き後に認知症を発症した母と暮らすために、長年住んだ南房総の家を引き払い、勝浦に引っ越してきた飯田さん。勝浦で迎える初めての冬の様子、母の近況を美しい写真とともに綴ります。

 * * *

南房総と勝浦の違い

 立春を過ぎても、まだまだ厳しい寒さが続く。2月はさらに衣を重ねるという古の言葉のとおりだ。母と私が暮らす勝浦にも雪が降った。昨年夏まで住んでいた南房総では、きっともう春の花が全国に先駆けで道の駅に並んでいることだろう。

 江戸時代では、南房総は安房国(あわのくに)、勝浦は上総国(かみふさのくに)と、やはり、国が違っただけあって、今は同じ千葉県でも風や光がだいぶ違う。もちろん海もだ。黒潮が沿岸近くを流れているため、深い青色の水を湛えている。

 黒潮の大きな流れはアマゾン川をも凌ぐ水量だという。竜のように南から蛇行して北上してくる。その潮に呼応するように、冬の勝浦の空にはダイナミックな雲が時折出現している。

 私も勝浦という土地に着地し、だんだんと南房総の楽園的なムードとは違う、日本的なほの昏い雰囲気に慣れ親しんできた。自分の年齢にもどこか相応しいかもしれない。とはいいつつ、時折、以前暮らした南房総の岩井を訪ねると、懐かしく故郷に帰ったような気持ちになる。花や小道や、夕日に染まってゆく雲を眺めていた時間が愛おしい。

 母にとっては施設から勝浦の家に戻り2年目の冬。山の上の我が家では早朝には、バケツに分厚い氷が張っている。雪の降った日は、ゴルフ場が雪原に変わり、これはまた美しい風景であった。


 風に舞う雪を窓越しに眺める母の背中は、変わらず続けている編み物で少し丸くなっている。

毎日同じ会話で朝が始まる

「ああ、寒い、寒い」

 起床してからリビングに来る時、薄着のままで母は毎日決まってそう言う。

「その服じゃあ、いくらなんでも寒いでしょう。羊柄のモコモコベストを着てきたら?」(私)

「え??そんなのないわよ」(母)

 私が部屋に入り、ベストを着せて、ようやく朝の食事となる。来る日も来る日も、同じ会話で朝が始まる。

 歌舞伎役者さんが「毎日同じ時間に同じ台詞を言うのが商売なんてなかなか他にはないでしょう」とテレビで話していたが、「ああ、私もそれだわ」と思う。

 母がわかりやすいように、ベッド脇にハンガーでベストを吊るしてみたが、目の前にあっても目に入らない。何を選んで着るべきか、わかる日もあれば、全く判断がつかない日もあり、最近はだんだん後者の日が増えてきた。

母の名言

 寒い朝は、ホースも凍てつき水も出ない。車の中に置いてあったペットボトルの水すら凍っている、そんな日は車も出さず、日が昇るのを待つ。

 車は年末に偶然にパンクをしたのを機にスタッドレスタイヤに履き替えていたので安心だ。災害や緊急の事態が起きた時、車を山家から出せないのでは困る、との思いだったのだが、実際、今年に入ってから何度か雪が降った。とはいえ、房総半島は黒潮の恩恵を受けた温暖な土地。山では雪でも、海に降りればただの雨。積もった雪もあっという間に陽光にさらされて消えてしまう。

「雪が溶けてホッとした」と私が言うと、あんなに夢中になって雪を眺めていた母が「雪なんて降ったの?」と真顔で言う。

「え?昨日ほら、白かったでしょう、外が。ママ見てたじゃない」

「忘れちゃった!いろいろなことね、忘れなくちゃ死ねないのよ!忘れてちょうどいい」

 かなりの名言を、母はあっけらかんとして言う。

母、初めてのワクチン接種

 持病もなく、かかりつけの医師の門すらこの1年叩いていない母は、先日ようやくコロナワクチンの接種をした。

 ほぼ家にいるし、打ちたくないという本人の意思を尊重していたが、感染蔓延の魔の手が勝浦の地でも油断ならないことになってきた。施設のショートステイを利用するためにもワクチン接種が必要だと、病院嫌いの母を説得した。

 そんな準備をしていた矢先、やはり施設内でも職員に感染者が出たとの情報が入ってきた。

「次回のショートステイの時からは、送迎の時に必ず抗体検査をして、結果が陰性と確認してからお連れします」

 そんなショートメッセージがケアマネさんから届いたのだ。

 病院の待合室では、間隔を空けて座り、母は久々の病院にキョロキョロと持ち前の好奇心が発動している様子。

 好奇心といえば、母がよくする自分の幼い頃のエピソードで、想像するだけで笑ってしまう話がある。

 アルバムで見たおかっぱ頭のワカメちゃんみたいなヘアスタイルの母の幼少時代の話だ。神田の淡路小学校界隈はまだのんびりとしていた。電車の高架下にはバナナの工場があったそうで、マンホールから湯気が出ていた。まだ青いバナナが台湾から届くと、クレーンで籠ごと蒸し穴のある地下に降ろし、しばらく待つと今度は黄色になったバナナが出てきた。それを学校の帰りに仲良しグループで「ねえ、ねえ、色が変わったよ!魔法みたい」と見ていたのだそう。

 また、日曜日には御茶の水にあるニコライ堂教会入り口に子供グループで出向き、正装してミサに集まってくるロシア人を柱の陰から見ていた話。十字を切る様や、日本人とは違う恰幅のいい背格好を、多分キョロキョロと見ていたようだ。

「あの、ガリガリに痩せた裸のおっさんは誰なの?」

 コソコソと怖がって見ていたのは、もちろんイエスキリスト像だった。

 そんな昔話を、母は思い出しては笑うのだった。

 最近の母は、母や妻の肩書は捨て、本来のケイコちゃんに戻ってきている。

「イイダケイコさん」

 ワクチン接種の順番がようやくよばれると母は「はーい!」と大きな声で返事をして、診察室へと入っていった。

 接種も明るく終えて、待ち時間20分のタイマーを渡される。キョトンとした母に説明し、また椅子に座らせる。すると5分後には「もう帰ろう」という。「待っててね。まだあと15分」「はい、そうなのね」と不機嫌そうな母。

 母は難聴なので、私は大きなはっきりした口調で話しかけなければいけないので、周りの人の視線が集まってしまう。

 対して、母はいたって普通の音量で話すので、はたから見たら虐待しているようにも感じてしまうかもしれない。空気振動で鼓膜に届く他者の声は聞き取りにくいが、自分の声は骨伝導で聞こえるらしい。

「私は難聴です」と書いたバッジや、絵のマークがあったら、他者が認識しやすいのにと思うことが多々ある。

 家に戻り、翌日も母の様子には全く変化の兆しはなく、食欲も通常通り、筋肉痛もなく、無事に接種を終えたのだった。

介護はいつまで?拭いきれない「時間の不安」

 そして無事にショートステイに母を送り出した。私は打ち合わせなど、しばらくは仕事に集中したり、時折庭の改造のために体を動かしたりして過ごした。

 2年ぶりくらいに、かつての仕事仲間ともゆっくり話ができた。思えば本当にいろいろな場所へ旅に出た。空港で待ち合わせをし、そこから取材の仕事モードに入るあの感覚。現地でのトラブルを一緒に乗り越え、一つの記事を作り上げてきた仲間たちだ。

 でも、今の話題といえば、やはり介護と自分の健康の話だ。

「この間ね、姉の代わりに1週間母の介護にようやく帰省したの。姉が参っていてね」と友人。聞けばお母様は要介護3。認知症はなく、頭はとてもクリアだそうだ。でも、足腰が弱く、トイレも自分で行くことが難しいという。お母様のプライドや子供に迷惑をかけてるとういう罪悪感をひしひしと感じ、いたたまれなかったそうだ。

 こちらは、足腰は丈夫だが、記憶のほうが困った状態。罪悪感的な悲惨さよりも、「これがいつまで続くのか?」という不安。

 どちらにせよ、「いつまで?」という介護にまとわりつく「時間の不安」は、完全に払拭はできないだろう。冷たいかもしれないが、自分が動ける人生もそう長くはないしと、思ってしまう。

「要介護」になると、親と子供の役割が逆転する。子が親の保護者になるのだ。私は子供の保護者になったことがないので、初の保護者経験だ。若くもない脳には、多分、新米保護者は新鮮な仕事である。

 母ショートステイで自分は久しぶりの1人時間。せっかくなので、ちょっと特別なコーヒーを淹れ、音楽をかけて、深呼吸をしてみた。

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写真・文/飯田裕子(いいだ・ゆうこ)

写真家・ハーバリスト。1960年東京生まれ、船橋育ち。現在は南房総を拠点に複数の地で暮らす。雑誌の取材などで、全国、世界各地を撮影して巡る。写真展「楽園創生」(京都ロンドクレアント)、「Bula Fiji」(フジフイルムフォトサロン)などを開催。近年は撮影と並行し、ハーバリストとしても活動中。HP:https://yukoiida.com/

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