母はどんな時も無償の愛で包んでくれた。その偉大さを知ったのはいつのことだったか。慈母の記憶はいつも、懐かしい温もりとともに甦る。ここでは、経済評論家の森永卓郎氏(56)が母・トシさんとの思い出を振り返る。
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父は新聞記者でしたが、決して裕福な家だったわけではありません。母はちょっとした日用品なら全部自分で作って、少しでも家計の負担を減らそうとしていた。今思えば必死で生きていたんだなァと思います。そんな暮らしですが、僕は小学1年生の時に、昆虫採集の網が欲しくなったんです。
オニヤンマは駄菓子屋で売っているような安物の網だと捕獲できない。それで、本職の方が使用するような高級網を、デパートで母に買ってもらった。僕にすれば、1年にあるかないかのプレゼントでした。
ところが公園に行くと、すぐに近所の上級生に網を取り上げられてしまった。泣きながら帰ると、母に「簡単に諦めるんじゃない」と叱られました。それから、数週間、母に連れられて毎日公園通いですよ。網を奪い返すために。
やっと上級生を捕まえて母が取り返してくれた。貧しい我が家にとって高価な網だったこともあるが、母の執念に、絶対に諦めないことの大切さを学びました。そのためか、僕は幼稚園から大学まで、たとえ40度以上の熱があっても1日も休んだことがないんですよ。
小太りで、父の仕事の関係で欧米にいたこともあって、学校では格好のいじめの対象でしたが、耐えることができた。今もテレビで好きなことをいって、“いじめ”にあっていますけど(笑い)、諦めないでいいたいことをいえているのは、そのおかげ。
母は私がいじめられていると、飛んできて介入するような人でした。子供の頃は親が関わると余計にいじめられて嫌でしたけど、思い返せば、いじめの最終的な歯止めになっていたかもしれません。
とにかく、我が子が大好きな母でした。東大に合格した後は、合格者の氏名を掲載した雑誌を大量に買い込み、テレビ番組に出演し始めたころは本当に嬉しそうでした。“我が子自慢”の母が、私の母親像ですね。
■森永卓郎(もりなが・たくろう):東京都生まれ。専門の経済分野だけでなく、サブカルチャーなど幅広い評論を行う。
※週刊ポスト2013年11月8・15日号