スポーツ一覧

野球、サッカー、相撲、ゴルフなどのスポーツニュースを集めたページです。単に試合結果を紹介するのではなく、選手たちの人間関係やドラマの裏側を報じます。

駅伝でも“エスビー軍団”は最強を誇った(1984年の東日本実業団対抗駅伝で瀬古からタスキを受けるロス五輪1万m代表の金井豊。写真/共同通信社)
瀬古利彦を育てた中村清監督、エスビー時代に繰り返し伝えた「才能は有限、努力は無限」
 世界で戦えるマラソン選手の育成──そのことに心血を注いだのが、早稲田大学競走部の監督などを歴任した中村清(1985年没、享年71)だ。エスビー食品陸上部監督時代には、有望選手が次々と“中村学校”の門を叩いた。その指導法には、「常軌を逸している」と言われるほどの凄みがあった。(文中敬称略)【全3回の第3回。第1回から読む】 * * * 瀬古利彦(現・日本陸連副会長)は早大卒業後もエスビー食品陸上部で、同部監督を兼ねるようになった中村の指導を受ける。瀬古は「何の疑問も抱かなかった」と話す。「大学3年の箱根駅伝が終わった(1979年)1月3日に監督の家の風呂に入っていたら、“お前の就職が決まったから”と言われました。どこですかと聞くと、エスビーだと。ピンと来なかったけど、“ハイ、わかりました”とだけ答えました」 その後、早大のライバルにあたる強豪・日体大の主力選手が次々とエスビーに進むことが決まっていく。瀬古が言う。「私のイメージではエスビーは“中村学校”でしたね。中村監督という校長先生がいて、この人の言うことが正しいと思う選手が集まってくる」 日体大から加入した一人が、モスクワ五輪5000m代表に決まっていた中村孝生だ。現在は立正大学陸上競技部駅伝部門監督の中村がこう語る。「中村清先生と初めて話したのは大学2年で陸連のヨーロッパ遠征メンバーに選ばれた時です。“頑張っているね”と声を掛けられた。その後、何度かアドバイスを受ける機会があり、その通りにして結果が伴った。この人の助言には間違いがない、という印象が強くなっていきました」 その中村孝生と日体大の同期で、のちに1988年ソウル五輪のマラソン日本代表となる新宅雅也も、“中村学校”行きを決意した。新宅はこう話す。「フォームで悩んでいた時期に、瀬古君の指導でヨーロッパ遠征に帯同する中村監督に相談したら、“俺なら3か月で直せる”と断言された。この人に指導を受けようと、その時に決めました」 ただ、日体大からのエスビー入りはすんなりとは決まらなかったという。前出・中村孝生が言う。「日体大関係者の間で大問題になりました。どうも大学の問題というより、中村先生のところに瀬古、新宅、中村の3人が集まるのを日本陸連がよしとしなかったようです。陸連は中村先生が思い通りにならない存在で手を焼いていたとも聞きます」 あまりに個性的な指導は当時も異端視されていたようだが、それでも“中村学校”で指導を受けたい思いは変わらなかった。「反対を押し切って入社してからは、結果を出すための練習がどういうものか強く意識させられました。“エスビー軍団”とよく言われますが、中にいると軍団というイメージはない。中村先生が基本的な練習の考え方は決めますが、細かくは瀬古、新宅、中村と三者三様に自分で練習を組み立てて、大会に合わせて調整していくのです」(同前) 繰り返し伝えられたのは「才能は有限、努力は無限」という言葉だ。「結果が出ないのは努力が足りなかったということ。自分に厳しくしないといけない。そういう考え方が重要と学びました。あとはやはり、中村先生の迫力です。“銃の引き金を引いていたから人差し指の太さが違う”と話していた。たしかに、人差し指が親指くらいある。それで“陸上は結果が悪くても命まで取られない”と言われると、ウッとなりますよね」(同前) 瀬古や中村孝生は1980年モスクワ五輪の代表に決まっていたが、東西冷戦下で日本はボイコット。 4年後の1984年ロス五輪ではエスビー食品から男子マラソンの瀬古、女子マラソンの佐々木七恵らが代表として名を連ねたが、金メダル候補だった瀬古は14位と惨敗した。「負けたのはすべて私の責任。ただ、中村監督にも重圧があったと思う。おかしいなと思ったのは五輪前の(北海道)常呂町の合宿の時です。練習で40kmを走る日に地元の人たちが応援に集まってくれた。ところが中村監督は“聞いてない”“瀬古の邪魔をするな”と言って、その人たちに向かって大きな石を投げて追い払ったんです。初めてのことで、尋常じゃなかった。今思うと監督にも相当のストレスがあったんでしょうね」(瀬古) そのロス五輪が中村と世界一を目指す最後のレースとなった。1985年5月、中村は渓流釣り中に足を滑らせ、川に転落して命を落とす。瀬古が言う。「趣味の釣りの時でよかったのだと思います。競技場で亡くなっていたら怖い顔をしていたと思う。好きなことをやっていた時だから、穏やかな気持ちだったのではないか」私財でメシを食わせる 中村が長く夏の合宿地にしていたのが、瀬古の話にも登場した常呂町だ。現地で支援したのが、水産加工業者の新谷裕彦だ。「もともと中村さんは趣味の狩猟で毎年、知床に熊を撃ちに来ていたんです。ある日、“飯を食べさせてほしい”と、うちの番屋に飛び込んできたのが出会い。70年ほど前です。そんな縁でうちの実家がある常呂町で合宿をするようになった。かなり難しい人でしたね」 ただ、熱心さには凄まじいものがあったという。「他人に厳しいが、自分にも厳しくて贅沢は一切しなかった。終戦直後は闇市で軍需物資を売って大儲けしたそうですが、早大の監督をやるようになった頃にはすっかりなくなっていた。みんな選手の胃袋に消えたそうです。陸上のために身銭を切る人でしたね」(新谷) 今の時代には見られない指導者像だろう。1988年ソウル五輪で現役引退後、早大やエスビーで指導者となった瀬古はこう語る。「中村監督のやり方しか知らないので、私も選手の前で砂を食べたり、自分の顔を叩いたりしました。でも、みんな引いていた(苦笑)。うわべだけ真似してもダメでした」 ただ、“中村学校”を旧時代のものと切り捨てることにも違和感がある。「合理的なことばかりじゃなく、昭和の泥臭いやり方からも学ぶことはあると思う。(日本のマラソンが)世界に比べて弱いということは、何かが足りないんですよ」 中村の教えのなかに、「令和の最強軍団」を作るヒントはないか──瀬古は今も考え続けている。(了。第1回から読む)※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.15 11:00
週刊ポスト
中田翔には様々な意見が(時事通信フォト)
巨人・中田翔絶好調で坂本勇人の一塁転向は白紙か 「外野にコンバート」の可能性
 巨人・中田翔がここにきて絶好調だ。8月10日の中日戦で同点の9回2死から守護神のライデル・マルティネスのナックルカーブを左翼ポール際へ。13号決勝アーチで戸郷翔征のプロ初となる2ケタ勝利をアシストした。翌11日からは不調の岡本和真に代わって第91代4番打者に起用されている。 崖っぷちからはい上がった。移籍2年目の今季は打撃の状態が上がらず、6月6日に2度目の登録抹消された際は打率.215、5本塁打、20打点。今季限りでの「退団危機」も囁かれる中、10日後に1軍昇格すると復活した。バットを短く持ち、逆方向を意識した打法にシフトチェンジして快音を連発。2か月で打率は3割目前まで上昇し、14本塁打とアーチも量産している。 スポーツ紙記者は「状態が良くなったのではなく、打撃が明らかに変わった。昔はどんな球も振り回していたが、今はインサイドアウトの軌道でボールを内側から叩こうとする意識が見える。コンタクト率が上がったことで三振数が激減し、甘く入るとスタンドに運ばれる。投手からすると厄介ですよ。打撃不振の岡本に代わって4番に抜擢されるのも当然でしょう」と評価する。 打撃だけではない。中田は一塁の守備でも貢献度が高い。身のこなしが柔らかく、ハンドリング技術が優れているのでショートバウンドも難なく処理する。内野手は安心して送球できるだろう。一塁の定位置を若手成長株の増田陸、ベテランの中島宏之と競っていたが、攻守で活躍する中田が外せない存在になっている。 中田の復調は明るい材料だが、一方で新たな悩みも。腰痛で戦列を離れている坂本勇人の「コンバート問題」だ。不動の遊撃手として長年活躍してきたが、今年は左内腹斜筋筋損傷で開幕1軍メンバーから外れると、5月に右ヒザ内側側副靱帯損傷で1か月以上戦線離脱。7月に腰痛で今年3度目の故障と満足に試合に出場できていない。攻守で衰えを感じさせないプレーを見せているが、遊撃の守備は体に大きな負担が掛かる。33歳という年齢を考えると、他のポジションへのコンバートも現実味を帯びてくる。 有力視されたのが三塁だった。ヤクルト・宮本慎也、阪神・鳥谷敬ら名遊撃手たちも現役生活の終盤は三塁にコンバートされ、結果的に選手寿命が伸びた。巨人の三塁は岡本という不動の存在がいるが、7月に一塁で守備練習を行ったことで「坂本が三塁コンバートの布石か」と話題を呼んだ。 一方、一塁へのコンバートも考え得る選択肢だ。坂本は7月3日に放送された日本テレビのスポーツ番組で、6月に1軍昇格した際に原辰徳監督から遊撃ではなく、一塁のポジションで復帰を打診されたことを明かしている。この時は坂本が遊撃での復帰にこだわったことを指揮官に伝えたという。 スポーツ紙デスクは、こう分析する。「坂本を三塁に回して、中田と岡本を一塁で競わせてチーム力が上がるかというと疑問です。坂本と中田を一塁で競わせるのも現実的ではない。3人ともスタメンで力を発揮するタイプです。そこで外野に回すというのも可能性として考えられそうです。守備での負担が少なく、打撃に専念できる。 当然、来年以降も遊撃を守る可能性はあります。坂本が離脱して以降、中山礼都、北村拓己らが守っているが物足りなさが残る。高卒2年目の中山は野球センス抜群で努力家なので、失敗しても我慢強く使い続ける価値がある選手だと思いますが、原監督にその忍耐力があるかどうか……」 坂本本人は遊撃にこだわりがあるだろう。現在のチーム編成を見ると、遊撃に入ることが一番しっくりくる。だが、坂本の今後の野球人生や将来のチーム編成を考えた時にコンバートは避けられない問題だ。坂本の守るポジションが岡本、中田、中山の野球人生にも大きく影響を及ぼす。果たして最善の策は──。
2022.08.14 11:00
NEWSポストセブン
1985年のニュージーランド合宿(写真提供/瀬古氏)
「技術の話はほとんどなし。9割以上が精神論」瀬古利彦が見た名伯楽・中村清の指導法
 世界で戦えるマラソン選手の育成──そのことに心血を注いだのが、早稲田大学競走部の監督などを歴任した中村清(1985年没、享年71)だ。エスビー食品陸上部監督時代には、有望選手が次々と“中村学校”の門を叩いた。その指導法には、「常軌を逸している」と言われるほどの凄みがあった。(文中敬称略)【全3回の第2回】 * * * 中村に師事した瀬古利彦(現・日本陸連副会長)は「絶対にNOと言わない」と自らに課したが、生半可なことではなかった。「外食禁止」「男女交際禁止」など、指導は生活の細かな部分に及んだ。「中村監督がトイレの中まで入ってくることもありました。便の色を見て“これなら大丈夫”と呟いたりして……。下宿は監督の自宅敷地内にあるアパートの2階。突然、部屋に来て冷蔵庫を開け、中身を確認されることもあった。やはり、憲兵隊長だなと(苦笑)」 朝、昼、晩と、食事後には最低1時間、「訓話」があった。瀬古の印象に残るのが「日本刀の刀鍛冶」の話だ。中村はこんな言い方をしていた。〈なぜ、なんでも切れる刀ができるか知っているか。刀鍛冶が毎日、魂を入れて打つからだ。あれは刀鍛冶の魂の塊なんだ。お前たちも一歩一歩、魂を入れて走りなさい。そうしないと魂を込めて走る外国人には勝てない〉 精神論ではないか、と尋ねると瀬古は笑いながらこう応じた。「そう、9割以上が精神論です。技術の話はほとんどなかった。“足が速いだけなら犬や馬に負ける。人間的にも一番になりなさい”といった具合にね」 そうした指導で、多くの才能が花開いた。 中村は終戦直後に一度、早大競走部でコーチとなった。映画監督の篠田正浩は1949年に入学し、中村の指導を受けた一人だ。 1950年の箱根駅伝で篠田は、1年生ながら「花の2区」を任される。区間5位で走り、早大は準優勝を果たした。篠田がレース後に起用理由を尋ねると、中村は「ベテランは自分のペースを守ろうとするが、新人は周囲につられて早く走ることもある。新人には未知の魅力があるんだ」と答えた。その考え方は、映画監督としての仕事にも影響を与えたと篠田は述懐する。「新人起用にはリスクもあるが、中村先生は“失敗したら俺が責任を取る。成功すれば君たちの名誉だ”と言い切った。自分は裏方で、手柄は走った選手のものという姿勢に感銘を受けました。映画を撮るようになった私が積極的に新人を起用したのは、その影響です」 一度、早大を離れた中村は、東京五輪前後には東急陸上部を率いて13人の日本代表を輩出。その後、母校に戻る。聖書や曹洞宗の開祖・道元の書である正法眼蔵を熱心に読み込んでいたため、訓話ではその引用も多かった。「たとえば“聖書には『二人は一人に勝る』とある。選手が一人でやるより、監督と二人でやるほうがいい。だからお前には俺が必要なんだ”とね。他にも『朽ちない冠を得るために節制する』という聖書の言葉を引きながら、節制の大切さを説いていました」(瀬古) 競技を見る目も確かだった。レース前に「お前はこういう展開で負ける」と指摘され、その通りになることが続いた。「もう、預言者ですよ。そういうことが続くと、信じてついていこうとなるでしょう」(瀬古) その結果、瀬古は大学3年、4年で箱根駅伝2区の区間新を叩き出し、学生ながら福岡国際マラソンを2連覇(1978、1979年)。1980年モスクワ五輪のマラソン代表を射止めた。(第3回につづく)※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.14 07:00
週刊ポスト
2022年3月に52歳の新人調教師として再スタートした蛯名正義氏
元騎手・蛯名正義氏が考える「いいジョッキーになるために必要なこと」
 1987年の騎手デビューから34年間にわたり国内外で活躍した名手・蛯名正義氏が、2022年3月に52歳の新人調教師として再スタートした。蛯名氏の週刊ポスト連載『エビショー厩舎』から、いいジョッキーになるために必要なことについてお届けする。 * * * ジョッキーになるため、あるいは続けていくためにこれだけは必要だという運動能力なんていうのはとくにないのではないでしょうか。 最も大事なのは「絶対に負けたくない!」という強い気持ち。これがないと絶対に一流ジョッキーにはなれないのかなと思います。競馬だけのことではなく、あらゆることで勝つことに貪欲であること。たとえば僕は道を歩いていて後ろから来た人に抜かれると、抜き返そうと速足になってしまうという性格でした。 その現われ方は人それぞれ違うのでしょうが、とにかく気の持ち方が勝負ごとに向いているかということだと思います。いつでも闘志満々の雰囲気を出している人もいれば、そういう意識をいつも内に秘めていて、何かの時に表に出てくることもあると思います。いずれにしろ努力して得られるものではなく、持って生まれた資質ではないかと思うんです。ちょっと鼻っ柱を折られたら「俺はもうダメだ」と思うのではなく、やり返してやるぞと思えるかどうかということも考えられるかもしれません。 その性格が競馬学校入学の際に問われることはありません。「勝ちたい」という気持ちが強ければ、きついトレーニングに耐えることもできるし、勝つためにどうすればいいかと考えることもできます。 まだジョッキーになろうなんて考えてもいない小学校に入ったばかりの頃の話です。僕は脚の病気で長期間入院していたのですが、ある日そこに巨人軍の王貞治選手が慰問にいらしたことがありました。で、50人ぐらいの子供たちでじゃんけんをして僕が勝ち抜き、王さんに抱っこしてもらったんですよ。生来の負けず嫌いだったのかどうかは断言できませんが、勝ってやるぞという純粋な気持ちは強かったのだと思います(笑)。 小学校や中学校の時、運動に関することで一番だったものはひとつもありません。野球をやっていましたけど、体が小さかったのでパワーが足りず、プロ野球の選手になりたいなんていう夢は持てなかった。運動会の徒競走でも「負けたくない」という気持ちはありましたが、やはり足の速い子にはかないませんでした。もちろん腕力やジャンプ力があるということが邪魔になることはないけれど、必須条件ではない。ジョッキーはアスリートではありますが、科学的なトレーニング方法も開発されていて鍛えることができます。 あえていうなら「ハマリがいい」というのでしょうか。たとえば野球でバットを構えれば、なんとなく打てそうな雰囲気がある。ゴルフをやれば、誰に教えてもらったわけでもないのにスイングがサマになっている。いわゆる「筋がいい」っていうことでしょうか。運動神経がいいということとは違うと思います。未経験のことに対応できるということは必要なのではないでしょうか。ただどれも絶対ではないですよね。 そういう意味では、僕もある程度どんなスポーツでもこなせる子供ではありましたね。野球以外のスポーツをやっても恰好がついたし、走るのは長い距離も短い距離もけっして遅い方ではなかった。ただし水泳だけはダメ、溺れて死ぬかと思ったことがありましたから。だから泳げなくてもジョッキーにはなれます(笑)。【プロフィール】蛯名正義(えびな・まさよし)/1987年の騎手デビューから34年間でJRA重賞はGI26勝を含む129勝、通算2541勝。エルコンドルパサーとナカヤマフェスタでフランス凱旋門賞2着など海外でも活躍、2010年にはアパパネで牝馬三冠も達成した。2021年2月で騎手を引退、2022年3月に52歳の新人調教師として再スタートした。※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.13 11:00
週刊ポスト
ホームランの“確信歩き”もサマになるヤクルト・村上宗隆(時事通信フォト)
ヤクルト・村上宗隆が「外れ1位」でも大活躍! その心理を“経験者”の元阪神・遠山奬志氏が解説
 ヤクルトの主砲・村上宗隆の勢いが止まらない。史上最年少となる22歳でシーズン40本塁打に到達し、8月12日のDeNA戦では2日連続となる41号ソロを放った。本塁打と打点では他を寄せつけない独走態勢を築き、打率でもトップに肉薄する。三冠王まで射程に入ってきた。NPB史上初となる5打席連続ホームランまで記録した怪物だが、2017年のドラフトでは1巡目の1回目で清宮幸太郎(日本ハム)を抽選で外したヤクルトに指名された「外れ1位」だ。外れ1位が大活躍を見せるケースは過去にもあるが、選手の側はどういった心理で受け止めているのか――。 外れ1位ながら入団後に素晴らしい活躍を見せる現役選手でいえば、巨人の主将・坂本勇人だろう。2006年の高校生ドラフトで巨人が1位指名したのは、堂上直倫だったが、3球団競合の末に抽選で交渉権を獲得したのは中日だった。そこで巨人が外れ1位で指名したのが、光星学院(現・八戸学院光星)の坂本だった。2年目からレギュラーに定着し、以来、チームの核であり続けている。 他にも、DeNAの守護神・山崎康晃は、2014年のドラフトでの外れ1位(DeNAの1回目の氏名は日本ハム入りした有原航平)であるなど、同様の例は少なくない。 PL学園のKKコンビ(桑田真澄、清原和博)が注目された1985年のドラフトでは、6球団が1位指名を清原和博として競合した。交渉権を獲得したのが西武だが、クジを外した阪神が外れ1位で指名したのが、後に“松井(秀喜)キラー”として名を馳せる遠山奬志(昭治)だ。1年目は高卒ルーキーながら、先発ローテションの一角を担い8勝を挙げている。この年の高卒新人投手としては、桑田の数字も凌ぐ最高の成績だった。 遠山氏はこう振り返る。「指名を受けた本人たちは(外れ1位を)意識していないと思いますよ。特にボクはプロを考えてもいなかったくらいなので、気にしなかったですね。もちろん指名順位が低いと断わる選手もいます。ただ、村上もそうですが、ボクは高卒ルーキーですからね。即戦力ではなく、将来性を期待されて球団が指名してくれた。指名順位はありますが、入団すれば横一線。1位でも最下位でも実力があれば上にいけるのがプロです。どちらかといえば指名順位よりも、合同自主トレやキャンプで自分が(新人の中での実力が)何番目かというほうが気になりましたね」 プロ球団からの指名を期待してなかったうえ、世間はKKの話題で騒然となっていたこともあって、遠山氏には「1位」のプレッシャーはなかったという。「もちろん在阪のスポーツマスコミがボクをドラフト1位として扱うことで、他の新人より取材が多く、紙面でもそれなりの扱いを受けました。それがプレッシャーになる人もいるでしょうが、ボクは高卒ということもあってプレッシャーというより発奮材料になりましたね。希望選手(清原)のクジ引きで外れたとはいえ、残りの候補から球団が最初に選んでくれたのは間違いないわけです。マスコミがドラマを作りたがるから外れ1位とかを強調するが、1位は1位。ボク自身は外れ1位とか思ったことがない」 複数球団競合のうえ獲得した選手が一軍経験のないまま引退し、その外れ1位が活躍するということもあるのだから、そこにはやはりドラマがあるようにも思える。
2022.08.13 11:00
NEWSポストセブン
福岡国際マラソンでは早大、エスビー時代を通じて優勝4度(写真は1983年/時事通信フォト)
瀬古利彦、恩師・中村清監督との衝撃の出会い「砂を掴み、むしゃむしゃと食べ始めた」
 世界で戦えるマラソン選手の育成──そのことに心血を注いだのが、早稲田大学競走部の監督などを歴任した中村清(1985年没、享年71)だ。エスビー食品陸上部監督時代には、有望選手が次々と“中村学校”の門を叩いた。その指導法には、「常軌を逸している」と言われるほどの凄みがあった。(文中敬称略)【全3回の第1回】 * * * 早大競走部、エスビー陸上部で中村清の指導を受け、マラソン15戦10勝という戦績をあげたのが、瀬古利彦(現・日本陸連副会長)だ。中村との出会いについて、瀬古はこう振り返る。「忘れもしません。初めてお会いしたのは大学入学前の1976年3月25日。千葉・館山での新入生も参加する合宿でした。当時はまだ、OBの一人として来られていました。第一印象? とても饒舌な方だと思いましたよ。ずっとしゃべっていましたからね(笑)」 早大は同年1月の箱根駅伝出場を逃し、低迷期にあった。復活のための切り札として招聘されたのが、中村だった。 瀬古が語る初対面のエピソードは鮮烈だ。「話の途中で“俺はお前たちに謝りたい”と言い出します。“(早大が)低迷しているのはお前たちのせいじゃない。OBがちゃんと面倒を見ていないからだ。俺が代表して謝る”と言って、自分の頬を思い切り叩き始めるんです。手加減なしで叩きながら“これで許してくれるか”と……」 さらに、海岸の砂浜で話していた中村は学生たちに向かって「この砂を食えば勝てる、世界一になれると言われたら食えるか?」と問うたという。「こちらが何かを返す間もなく、“俺だったら食べるよ。勝てるなら何でもする”と言って、本当に足元の砂を掴んでむしゃむしゃと食べてみせたんです」(瀬古) 瀬古は四日市工業高校時代、インターハイや国体の1500mなどで優勝し、超高校級の中距離ランナーとして知られていた。ただ、スポーツ推薦がなかったこともあり、早大入学までに1年間の浪人生活を過ごしていた。「浪人中に10キロも太ってしまい自暴自棄にもなっていましたが、命がけで指導してくれる印象が鮮烈で、言うことを聞いてみようと思いましたね。周囲には奇異に映ったかもしれませんが、私の直感が“この人だ”と告げていました」(瀬古) 1913年生まれの中村は早大卒業後、1936年ベルリン五輪に1500m代表として出場。25歳で召集されると、陸軍では憲兵隊長を務めた。1976年に早大陸上部の監督に復帰後も、“憲兵隊長の顔”をのぞかせたという。「中村監督は“顔を見ればそいつの人生がわかるんだ。俺は軍隊でそういうのを覚えたんだ”とよく言っていました。実際、走っているフォームを見ただけで故障している部位や選手の潜在能力がわかったようです」 そう話す瀬古も、早大入学後は中村にマラソンの素質を見出される。「今日からマラソンをやりなさい。俺の言う通りやれば、お前なら世界一になれる」と告げられた。「その言葉を信じてみようと心に決めたのです。もし中距離を続けていたら、私の走りが世界で通用することはなかったでしょう」(瀬古)(第2回につづく)※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.13 07:00
週刊ポスト
ヤクルトの若き主砲・村上宗隆(時事通信フォト)
ヤクルト・村上宗隆が史上最年少40号!「外れ1位」が清宮幸太郎をはるかに凌ぐ理由をスカウトが説明
 5打席連続本塁打のプロ野球新記録を達成したヤクルトの村上宗隆。8月11日の広島戦では22歳にしてシーズン40本塁打の大台に乗せ、1963年の王貞治と1985年の秋山幸二が持っていた史上最年少記録(23歳)を更新。日本人初の60本塁打や最年少三冠王への期待がかかる。その怪物級の活躍で注目されているのがドラフトの「外れ1位」だ。村上のように、時に“本命”をはるかに凌ぐ活躍を見せる外れ1位が出てくることには、理由がありそうだ。 熊本・九州学院出身の村上は2017年秋のドラフトでヤクルトに入団したが、この年は「清宮ドラフト」と呼ばれ、巨人、阪神、ヤクルト、ソフトバンク、楽天、ロッテ、日本ハムの7球団が早稲田実業の主砲だった清宮幸太郎を指名している。抽選で日本ハムが交渉権を獲得した。 外れた6球団による1巡目の再入札となったが、そこでは村上と、履正社の4番だった安田尚憲にそれぞれ3球団が競合。ヤクルトが村上、ロッテが安田の交渉権を獲得した経緯がある。 7球団が競合した清宮は日本ハムの監督にビッグボスこと新庄剛志氏が就任した今季から覚醒したとはいえ、2017年のドラフトで抜群の活躍を見せているのは「外れ1位」でヤクルトに入団した村上であることは明白だ。 実は、外れ1位が“本命”を凌ぐほどの活躍を見せるケースは少なくない。2006年の高校生ドラフトでは、駒大苫小牧のエース・田中将大を4球団が指名し、楽天が交渉権を獲得。そしてもう一人、指名が集中したのが愛工大名電で高校通算55本塁打を記録した堂上直倫だった。中日、阪神、巨人の3球団から指名され、中日が抽選で交渉権獲得に至った。堂上の交渉権を得られなかった巨人が外れ1位で獲得したのが坂本勇人である。その後、坂本が巨人の看板選手となり、史上2番目の若さで2000本安打を達成したことは周知の通りだ。 2014年には4球団が競合した有原航平を獲得できなかったDeNAが、外れ1位では阪神との競合の末に山崎康晃の交渉権を獲得。山崎は1年目から新人最多の37セーブを挙げて新人王に輝いている。2005年には辻内祟伸のクジを外したオリックスが外れ1位でT-岡田を獲得。T-岡田は5年目に王貞治以来48年ぶりとなる22歳での本塁打王に輝いている。 歴史を遡ってみても、1990年にはヤクルトが小池秀郎の外れ1位で岡林洋一、1989年には横浜が野茂英雄の外れ1位で佐々木主浩、1982年には巨人が荒木大輔の外れ1位として斎藤雅樹を獲得した例がある。スポーツ紙デスクが言う。「第3回ドラフト(1967年)から一時、指名順位抽選制度になったことで外れ1位はなくなったが、江川事件で巨人がボイコットした第14回ドラフト(1978年)から入札制度となり、再び外れ1位が出現するようになった。1993年からは大学・社会人が逆指名となり、2007年に希望枠(逆指名)がなくなるまで、高校生にだけ外れ1位がある仕組みだったが、そうしたなかで、本命の1位候補よりも活躍する外れ1位という例がいくつも生まれてきた」 2010年ドラフトでは1巡目の第1回入札で斎藤佑樹、第2回入札で塩見貴洋の抽選を連続して外し、「外れ外れ1位」でヤクルトが獲得したのが山田哲人だ。2018年ドラフトでは阪神が藤原恭大、辰巳涼介の外れ外れ1位で近本光司を獲得している。山田哲人はトリプルスリーを3回達成し、近本は1年目にセ・リーグ新人最多安打と盗塁王に輝いている。 外れ1位や外れ外れ1位がなぜ活躍するのか。在阪球団も元スカウトの見方はこうだ。「もちろんスカウトの目が問われる問題につながってくるが、野球も興行。1位で競合するケースは実力より話題性で指名することも少なくない。どの球団もクジが外れた時の候補を2~3人に絞っており、そちらのほうがむしろ、即戦力や潜在能力を秘めた選手が多い。村上がまさにそうだが、そうしたなかで『外れ1位で重複するケース』は、プロ入り後に能力を開花させ、活躍する例が目立つ印象だ」 外れ1位の星とも言える村上は、どこまで数字を伸ばせるか。
2022.08.12 16:00
NEWSポストセブン
捕手の及川(写真右端)は大学で野球を続ける選択を
佐々木朗希・高校3年の夏【後編】完全試合で報われた大船渡高校の部員たち
 今年も「夏の甲子園」が開幕する。ただ、才能溢れる球児が必ずしも聖地に辿り着くとは限らない。最たる例がロッテ・佐々木朗希だろう。高3の夏、岩手大会決勝でまさかの「登板回避」。決勝で先発のマウンドに上がったのは、大船渡高校で背番号「12」を付けていた控え投手・柴田貴広(現・大東文化大学3年)だった──。 当事者たちは今、どう振り返るのか。当時の國安陽平監督やナインの克明な証言を収録した新刊『甲子園と令和の怪物』の著者・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の後編。前編から読む。文中敬称略】 * * *なんで僕? 1対9と大勢が決した7回に國保はようやく継投を決断する。だがマウンドに送ったのはやはり大会初登板となる2年生左腕の前川真斗だった。 前川も当時の正直な気持ちを吐露してくれた。「出場するとは思っていなかった。突然の登板に気持ちの整理がつかず、頭の中が真っ白のままマウンドに上がりました。『なんで僕?』と思う余裕すらありませんでした。案の定、2者連続で四球……。心の準備ができていませんでした」 前川は2対12で迎えた最終回の攻撃で打席に入り、ショートライナーに倒れた。その瞬間、ゲームセットになった。「この時ばかりは自分が打席に入っていいのか、と。バッティングも良い朗希さんだって(ベンチに)いたわけですから……」 岩手大会決勝の2か月後、佐々木の背番号「1」を受け継いだ前川は秋の岩手大会に臨み、沿岸南地区予選を勝ち抜き、県大会の3回戦まで進んだ。「県の1回戦で延長10回を投げ抜いたあと、中1日が空いた2回戦は本来、自分は先発ではなかったんです。國保先生は登板間隔を気にして、先発回避を決めたんですが、どうしても投げたかった僕は志願した。朗希さんの登板回避ばかりが問題になりますが、國保先生は朗希さんだったから神経質になっていたわけではない。すべての投手の身体、肩ヒジのことを考えてくれる指導者でした」 岩手大会決勝から1年後、2020年夏はコロナ禍によって岩手県の独自大会となった。前川にとっての最後の夏。敗北の瞬間、國保は前年の決勝に出場した前川と主将だけを呼んで、労いの言葉をかけていた。「なぜ國保先生は決勝で僕を投げさせてくれたのか。それを分かりたいというか、自分の中で理解するために、1年間、頑張ったつもりです。ちょっと投げすぎちゃって、左肩を痛めた時期もあったんですけど」 そう笑顔で語る前川は、國保の起用理由に関する答えを最後まで見つけられなかったが、「野球はやりきった」と思えた。だから北海道の大学に進学後、野球から離れた。報われたと思う 8月1日に発売された拙著『甲子園と令和の怪物』では、あの夏を振り返った國保の独占告白を収録している。佐々木の起用に関して、國保はナインに詳しい説明をしなかった。それは、一言でも相談したら、きっと登板を訴える佐々木や他のナインの願いを退けることが難しくなる──そういう判断だった。 佐々木の登板回避を巡って学校には苦情の電話が殺到し、國保の自宅を突然、訪れる人間が現れるなど、喧騒はしばらく続いた。そして、昨年夏、國保は監督を退任し、現在は部長という立場で選手を支えている。「監督の退任と朗希の騒動は関係ありません。高校野球が週に一度しか試合がないのであれば、エース一人で勝利を目指してもいいのかもしれません。でも、短期間のトーナメントである以上、一人の投手で勝ち上がることは不可能。『1』を背負った投手しか起用しないとなると、他の投手のモチベーションも上がりません。そうしたことも含めて、決勝では朗希を登板させませんでした」 とはいえ、ナインでさえ困惑するような選手起用が、勝利への近道だったのだろうか。ただ、國保にとっては9人のレギュラーだけでなく、文字通りの総力戦で勝利を目指すことが理想の高校野球の姿なのだろう。 選手たちはあの日の采配に疑問を抱き、不満を口にする者もいまだにいる。だが、不思議と國保に対する恨み節は聞かれなかった。柴田は言った。「もう少し早く登板の可能性を告げてくれていたら心と体の準備ができたのにと思っていましたが、時が経つにつれ、僕が気負わないようにむしろ気を遣ってくれたんだと思うようになりました」 160キロ超の佐々木のボールを受けていた及川は、現在、東北学院大学の野球部に所属する。「ちょっとでも朗希が投げすぎると『酷使だ』と言われ、國保先生も朗希も、大変だなと思っていました。朗希が完全試合を達成したことで、辛い判断を強いられた國保先生や朗希、すべての部員が報われたと思う」 関西の名門・同志社大に進学した木下は、この春から学生コーチに就任。将来は指導者を目指したいというが、決断には國保の影響もあるだろう。「朗希の身体も大事だけど、僕らの夢も大事だろうとは、夏の大会が終わってしばらくは思っていました。でもプロで完全試合を達成した姿を見ると、あれで正解だったと思いますよね(笑)」 2019年夏の岩手大会決勝以降、高校野球は様変わりした。指揮官が「エースと心中」する学校は消え、複数投手の継投でなければ勝ち上がれない時代に突入した。2021年春の選抜から「1週間に500球以内」という球数制限も導入されたが、投手を酷使する監督に厳しい目が向けられる契機となったのが國保の決断だったことは疑いようもない。 今夏の甲子園も8月6日に開幕する。名門校の戦いに、名将の采配に、登板回避の余波を感じずにはいられないはずだ。(了。前編から読む)【プロフィール】柳川悠二(ノンフィクションライター)/1976年、宮崎県生まれ。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。新著『甲子園と令和の怪物』で、“佐々木朗希以降”の高校球界の新潮流を活写した。※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.12 07:00
週刊ポスト
【動画】ソフトバンク上林誠知 5年間交際の年上彼女と結婚間近か
【動画】ソフトバンク上林誠知 5年間交際の年上彼女と結婚間近か
 プライベートは充実しています。 右アキレス腱断裂したソフトバンクの上林誠知選手。 年上彼女とのゴールインが囁かれています。 球団関係者によると「5年間真剣交際している彼女がいます。福岡・中洲にあるバーのオーナーの女性で、歳は40代。バツイチでお子さんもいるそうですが、『頼れる姉御感』に惹かれたそうです」とのこと。 彼女がオーナーを務めているバーは、プロスポーツ選手御用達の店。 彼女は、常連客に対しては上林選手との関係を打ち明けているそうです。【↑ 上の写真クリックで動画へ】
2022.08.11 16:00
NEWSポストセブン
背番号「12」を付けていた柴田貴広(現・大東文化大3年。撮影/藤岡雅樹)
佐々木朗希・高校3年の夏【前編】岩手大会決勝で投げた「背番号12」の思い
 今年も「夏の甲子園」が開幕する。ただ、才能溢れる球児が必ずしも聖地に辿り着くとは限らない。最たる例がロッテ・佐々木朗希だろう。高3の夏、岩手大会決勝でまさかの「登板回避」──当事者たちは今、どう振り返るのか。当時の監督やナインの克明な証言を収録した新刊『甲子園と令和の怪物』の著者・柳川悠二氏がレポートする。【前後編の前編。文中敬称略】 * * *ナインの夢が絶たれた 令和の怪物が、覚醒の時を迎えている。 千葉ロッテに入団して3年目の今季、佐々木朗希(20)は4月10日に史上最年少で完全試合を達成し、オールスターでもパ・リーグの先発投手部門に1位で選出された。「日本のエース」と呼ばれる日も間もなくだろう。 岩手県立大船渡高校の監督・國保陽平が、岩手大会決勝・花巻東戦で投打の要だった佐々木を起用しなかったのはわずか3年前だ。その理由は「故障から守るため」。結果、大船渡は大敗を喫し、35年ぶりの甲子園出場は果たせなかった。 目先の勝利よりも、佐々木の将来を優先し、この飛躍を導いたという点で、あの日の國保の決断は英断だったのかもしれない。今春、國保は私の取材にこう答えている。「正解だったのか、間違っていたのか、それは分かりません。結局、朗希が登板しなくても、勝てるようなチーム作りが僕にはできなかったわけですから。当時、監督として一番恐れたのはヒジの故障です。決勝までにかなりの球数を投げていた朗希の右ヒジが、勝てば甲子園という状況の決勝で160キロ超というボールの出力に耐えられるのか。そこを懸念しました」 決勝で投げさせたとしても将来に影響を与えるようなケガを佐々木が負うことはなかったかもしれない。だが、故障リスクの最も高い日だったことは間違いない──。だからこそ登板させなかったことの後悔は國保になく、「もう一度、あの日に戻ったとしても僕は投げさせません」と断言した。 私は2019年夏以降、幾度も岩手に足を運び、いっさいの取材を拒否していた國保との距離を少しずつ縮めていった。 しかし、甲子園という唯一無二の夢を絶たれた他のナインたちは、当時、國保の決断に納得し、敗北を素直に受け入れることができたのだろうか。その疑念が拭いきれない以上、私も「登板回避事件」の取材に決着を付けることはできなかった。そんな折、あの日の決勝の「もうひとりの主役」とアポイントが取れた。まさかあいつが投げるのか 3年前の岩手大会決勝の日の早朝、背番号「12」を付けていた柴田貴広(現・大東文化大3年)は練習会場だった盛岡大附属高のグラウンドに到着。すると、國保が用意したスタメンを告げるボードに自分の名前を見つけた。 まず驚きが勝った。柴田はこの夏はもう登板機会がないことを覚悟していたからだ。次に、戸惑いが襲ってきた。決勝までの5試合、実質5番手の実力に位置づけられる柴田は一度もマウンドに上がっていなかったのだ。「自分でいいのかな、と思いました。朗希が投げたほうが勝つ可能性は当然高いし、僕が先発であることにみんな驚いていましたから。でも、せっかくいただいたチャンス。頑張るしかない、と。その時点では(試合途中から)朗希が投げるかもしれないと思っていたので、朗希までの『つなぎ役』としてできることをやろうという気持ちでした」 國保は大会前から部長の吉田小百合や外部コーチらに、速球対策などに余念がない強豪私立には、右サイドハンドの柴田のような変則投手こそ有効だと話し、決勝での登板をほのめかしていた。コーチらは冗談と受け流していたが、國保は本気だったのだろう。 プレイボールの直前、球場は不穏な空気に包まれていた。岩手県営球場のバックスクリーンに柴田の名前が表示される前から、佐々木がキャッチボールすらやっていないことで、先発が佐々木でないことを観客も薄々勘づいていた。客席に近いブルペンで投球練習をする柴田の耳には、観客の囁きさえ届いていた。「『まさかあいつが投げるのか』と。気にしないようにはしましたが……。大会中、國保先生から『肩、ヒジの状態はどうだ?』と訊ねられたことはあっても、決勝での登板の可能性については何も言われていませんでした」 柴田が1回表の綺麗なマウンドに上がる。先頭打者に三塁打を浴び、四球と悪送球によって早々に失点すると、3回までに4失点を喫した。「決勝を前にビデオを観たりしていましたが、実際の花巻東は、あまり振ってこないというか、ヒットを狙うというより出塁することを第一に考える打線でした。バントの構えをしたり、スリーボールになると一度、打席を外してみたり。とにかくいやらしさがあった」 球速のない柴田は、ベンチで見守る佐々木にアドバイスを受けながら、コースを丁寧について花巻東の打者にゴロを打たせようとした。「自分としては3、4回あたりで『通用しないな』というか……。『今の自分じゃ(抑えるのは)無理だ』と思いました。だけど、監督さんは自分を引っ張ってくれた。勝利への糸口があると思ってくれているんだと自分に言い聞かせて投げていました。ただ、勝つためには代えてもらったほうが良かったかなと思います」 5回と6回にも柴田は失点を重ねた。途中、捕手の及川恵介がベンチの投手陣に準備を指示していたが、監督は頑として動こうとしない。 大船渡の劣勢は続いた。無我夢中で花巻東打線と対峙するしかなかった柴田と違って、他のナインには動揺が走り、不信感を募らせる者もいた。佐々木とは高田小学校の同級生で、同じ3年生のタイミングで野球を志した及川はこう振り返る。「(佐々木が)投げないとは思っていなかったので、ビックリしました。朗希としても投げたかったはずですし、もし朗希が投げていたら、勝算ももっと高かったと思う」 國保は佐々木や及川に対し、登板回避の意図を詳しく説明することはなかった。そして、柴田の先発についても、女房役を務める及川に相談することはなかった。「朗希が投げないにせよ、マウンドに行くのは2番手、3番手のピッチャーかなと考えてはいました。國保先生の考えをもう少し知りたかった。それは自分だけでなく他の選手も思っているはずです」 主軸の外野手・木下大洋は、あの日の試合後、言葉を慎重に選びながらも國保への不満を誰より口にしていた選手だった。「僕は試合の途中から朗希を投げさせると思っていた。試合中、『なぜなんだ』という気持ちは消えませんでした。あの時点で、北海道日本ハムが朗希を1位指名すると公言していましたよね。つまり、朗希がプロに行くことは決まっていた。ところが、朗希以外の選手は、大学で野球を続けられるかどうかが懸かっていて、甲子園に行くか行かないかで、天と地の差があった。勝利を目指しているのかなと疑問に思うことはありました」(木下)(後編につづく)【プロフィール】柳川悠二(ノンフィクションライター)/1976年、宮崎県生まれ。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。新著『甲子園と令和の怪物』で、“佐々木朗希以降”の高校球界の新潮流を活写した。※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.11 16:00
週刊ポスト
次なるステップは?(時事通信フォト)
元横綱・白鵬、周到すぎる宮城野部屋の「継承」で見えてきた“理事の椅子”
 元横綱・白鵬の間垣親方が、ついに“一国一城の主”となる。8月に定年を迎える宮城野親方(元前頭・竹葉山)と名跡交換が承認され、宮城野部屋を継承して師匠となった。今回の継承について、「かなり異例なかたちではないか」と協会関係者は言う。「本来、部屋の継承には莫大なカネが必要。部屋の土地・建物を先代から購入するならその費用がいるし、所属力士だってタダではない。力士たちがいることで協会から養成費や維持費が支給されるのだから、彼らの移籍料を先代に渡すのが不文律。かつて二子山部屋と藤島部屋が合併した時には3億円のカネが動いたとされます。ただ、今回の白鵬はそんなに費用がかかっていないはず」 現役中から、宮城野部屋に“白鵬の弟子”が数多くいたからだという。「白鵬は早くから独立を見越し、自分の弟子を確保するルートを構築。周到な準備を重ねてきた。ジュニアの青田買いのために白鵬杯を開催し、高校相撲の名門・鳥取城北高と太いパイプを作った。鳥取城北の監督の出身校である日大にもパイプを持ち、モンゴルからの留学ルートもある。そうやって有望な内弟子を入門させてきた」(若手親方) 現在、宮城野部屋には17人の力士がいるが、その大半は白鵬の内弟子だ。関取の石浦、炎鵬、北青鵬はもちろん、埼玉栄レスリング部出身の宝香鵬、白鵬杯優勝者で鳥取城北高出身の向中野、白鵬がスカウトした雷鵬、千鵬、高馬鵬、石井、美、絢雄、黒熊らである。「むしろ先代がこれまで恩恵を受けていた。移籍料みたいなカネはないでしょう」(同前) 準備万端で部屋持ちの親方になり、「次なるステップは一門の理事」(ベテラン記者)だという。「伊勢ヶ濱一門の統帥であり、理事の伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)は3年後に定年を迎える。後継理事は親方衆にも人気がある浅香山親方(元大関・魁皇)でしょう。白鵬が狙うのはその次。ただ、伊勢ヶ濱親方は自身の部屋を横綱・照ノ富士に継がせたい意向で、将来的に白鵬vs照ノ富士による理事の椅子争いが起きそう。一門内で支持を広げ理事長を目指すのが白鵬の野望でしょう。部屋持ち親方になったのは、その第一歩」(同前) どこまで実現するか。※週刊ポスト2022年8月19・26日号
2022.08.10 11:00
週刊ポスト
ラガーさん
ラガーさん、再び甲子園から姿を消す 本人が明かした「チケットが高すぎる!」の叫び
 この夏、甲子園のバックネット裏に近畿圏の少年野球チームが無料招待される「ドリームシート」が復活した。その一方で、再び“ある男性”の姿が中継映像から消えた。1999年頃から2015年まで蛍光イエローのキャップにラガーシャツを着て、当時は自由席だったバックネット裏最前列の「A段73列」を定位置にして全試合を観戦、テレビ中継にも映り込んでいた通称“ラガーさん”こと善養寺隆一氏(56)だ。 コロナ禍による観客の入場制限が緩和された今春のセンバツにおいて、ラガーさんは2019年夏以来となる聖地での観戦を謳歌していた。ドリームシートが中止されていたために、かつての定位置のチケットを「正規ルートでたまたま取れた」と話し、テレビ中継に映り込んでいた。とはいえ、インターネットで購入するチケットが、そうそう希望する座席であるとは考えにくい。 その後、ラガーさんの姿はセンバツの中継から消えた。バックネット裏にあたる中央指定席でも、端の席で観戦することが多くなり、観戦客が少なくなった夕刻の試合などに、空いていた最前列にこっそり移動しては、高校野球を愛するファンの“通報”によって警備員から退場を命じられていた。 甲子園でラガーさんを探すのは容易だ。ラガーシャツに蛍光カラーの帽子をかぶった男性など、そうはいない。記者席からであれば、満員の甲子園でも、ものの1~2分で見つけられるのだが、今夏はどうも見当たらない。そこで連絡を入れた。「甲子園には行っていませんよ。最前列ではない席で観戦しても、前の人の頭で見づらかったり、柱とか、ワイヤーなどによって見にくい席がある。一塁側や三塁側に近い端っこの席だと、ピッチャーの球筋が見えない。高校野球観戦はテレビに限るね、本音言うとさ」 前の席の人の頭を気にする一方で、ラガーさんはマウンド上の投手の視界に入る位置にド派手な出で立ちで座っていた。「オレは人のことまで考えてないから」 あっけらかんと話すラガーさんだが、流石に「テレビ観戦に限るね」が本音とは思えない。質問を重ねると「(生観戦とテレビ観戦のどちらを好むかは)個人差があるからいいんだけどさ。オレはやっぱ、ド真ん中で見たいんですよ」とも話した。 日本高等学校野球連盟は、「暑さ対策、感染症対策の費用がかさむ」ことから、今夏より甲子園の観戦チケットを大きく値上げした。「大人1枚」のチケット代はバックネット裏の中央指定席2800円から4200円に、1塁・3塁内野指定席が2000円から3700円に。アルプス席は800円から1400円、指定席となった外野席は500円から1000円となる。席種によっては2倍の値上げだ。「正直言うとさ、チケット代が高すぎる! インターネットの注文でさらに手数料もかかってしまう。雨天順延となったら、払い戻しをして、チケットを取り直さないといけないでしょ。本音言うとさ、面倒臭くなっちゃった。以前のような通し券に戻してほしいね」「この値段でこれかよ」と思っちゃった かつてラガーさんは、バックネット裏にいち早く駆けつけられるように甲子園球場の8号門入り口付近に寝泊まりし、開門と同時に自由席だった最前列に駆け足で向かっていた。ところが、2018年より中央席が指定となり、無料だった外野も有料に。そして、自由席を求める長蛇の列を避ける目的もあって、現在は全席が指定席となった。 そうした状況下で、ラガーさんもかつてのように野宿することが難しくなり、甲子園を全試合観戦しようと思うと、20万円から25万円近い費用がかかってしまう。「(今春の)センバツでは甲子園近くに1泊3000円で民泊した。その民泊料金も、今年の夏は値上げすると言われたんだよ。それにさ、中央指定席でも、端のほうの席だと、『この値段でこれかよ』と思っちゃったんだよね。悪いけど、10年以上、オレは最前列で高校野球を見てきた。やってらんないよ。だからセンバツでは、観客が少なくなると、最前列に移動しちゃってた。誰もいないからいいかなと思っちゃったんだよね。それはすみませんでした」 毎年、ラガーさんは8月13日の誕生日を甲子園で迎えていた。57歳の誕生日は、自宅のテレビの前で過ごすことになるのだろうか。家業であった印刷業を細々と続けながら、甲子園観戦を続けてきたものの、その家業の経営にも苦労があるといい、大阪に長期滞在するのは簡単ではないだろう。「本音言うとさ、このチケット代金は常識外! だからといって、『引退』とは書かないでね! この夏だって、甲子園に行くことがあるかもしれないから」 そのうち、ふらっと甲子園にやってきては、テレビに映り込もうと懸命になるラガーさんがいるかもしれない。■取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)【著者プロフィール】1976年、宮崎県生まれ。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。新著『甲子園と令和の怪物』(小学館新書)では、ロッテ・佐々木朗希の大船渡高校時代の岩手大会決勝「登板回避」について、当時の國保陽平監督の独占証言をもとに詳細にレポートしている。
2022.08.10 07:00
NEWSポストセブン
起用でも二転三転が目立ち、ファンから戸惑いの声(時事通信フォト)
最下位低迷の中日 立浪和義監督の采配に「目指す野球の方向性が見えない」の指摘
 中日が最下位に低迷している。後半戦は広島に敵地・マツダで同一カード3連勝と幸先良いスタートを切ったが、その後は4連敗を喫するなど上昇カーブを描けない。スポーツ紙デスクは首をかしげる。「戦力的に厳しいのは事実ですが、立浪和義監督が目指している野球が100試合近く消化しても見えてこない。守り勝つ野球なのか、攻撃的な野球を志向するのか。成長過程のチームですが、同じ最下位でも日本ハムのように来季以降に希望が持てるわけでもない。岡林勇希、高橋宏斗と楽しみな若手は出てきていますが、チーム力が昨年から上がっているようには感じません」 昨季はリーグワーストの405得点で5位に低迷。立浪監督が就任し、「強竜復活」が託されたが、低迷する状況でグラウンド外の出来事のほうが話題になっている。中村紀洋1軍打撃コーチが交流戦開幕直前の5月23日に2軍に異動。入れ替わる形で波留敏夫2軍打撃コーチが1軍に移った。このテコ入れが実ったと言えず、288得点(8月9日試合開始前)はリーグワースト。 もちろん、プレーするのはグラウンドに立つ選手たちで、コーチに全責任があるかと言われれば違う。だが、シーズンが始まって2か月も経っていない状況での唐突な配置転換は大きな波紋を呼んだ。球団関係者は「こういった形で注目されることは望んでいない。立浪監督は周囲の雑音を消して、選手を不安にさせないためにもコーチの配置転換の意図をきっちり説明すべきだった」と表情を曇らせていた。 起用法にも疑問が残る。今季途中加入したペドロ・レビーラは典型的なケースだ。今季キューバリーグで74試合出場し、打率.313、26本塁打をマークした長距離砲は6月に育成枠で入団。7月27日に支配下昇格すると、1軍昇格した同月30日の広島戦に「6番・左翼」で1軍デビューを飾り、来日初安打初アーチの活躍で勝利に貢献する。ところが、8月5日のDeNA戦では左翼の守備で5回に神里和毅の打球で目測を誤り三塁打に。6回も牧秀悟の左中間の打球にグラブが届かず二塁打にした。先発のエース・大野雄大は拙守に泣かされる形で7敗目を喫した。 中日を取材するスポーツ紙記者は「レビーラを左翼で起用することが間違っているとは思いません。巨人のウォーカーみたいに打撃で成功するケースもありますから」と前置きした上で、こう続ける。「レビーラの本職は一塁と捕手。外野を守ったことがない。それにもかかわらず来日してからファームで一度も外野を守っていません。ビシエドが一塁を守るのは分かり切っていることです。なぜファームにいる時にレビーラを左翼で守らせて実戦経験を積ませなかったのか。強いチームだったら1軍と2軍で情報を共有してこんな起用法にはならないのではないか。レビーラがミスをしたのが悪いのではなく、突貫工事の起用法に問題と見られても仕方ありません。レビーラも繊細な性格なので、打撃に影響が出ないか心配です」 低迷する現状でチームを変革するのは難しい。立浪監督は難しいかじ取りを担うが、星野仙一、落合博満の両氏ら名将の下で現役時代に「強い中日」の主力としてプレーした経験を持つ。指揮官としてチームを立て直せるか――。
2022.08.09 16:00
NEWSポストセブン
渋野日向子
渋野日向子「調子の波、大きすぎ?」 予選落ち連発から全英3位で、スイング改造の是非に議論再燃
 女子ゴルフの今季メジャー最終戦の全英女子オープン(英・ミュアフィールド・リンクス)で、最後まで優勝争いに絡んだものの1打及ばす3位でフィニッシュした渋野日向子(23)。日本人初となるメジャー2勝目を惜しくも逃した。プレーオフに進出したアシュリー・ブハイ(南アフリカ)の夫を見つけて笑顔でエールを送る姿が大会公式ツイッターから拡散されるなど、“スマイルシンデレラ”が戻ってきた印象だが、直前までは不調に苦しんでいた。渋野の「好不調の波」の原因が議論の的となっている。 渋野が前回、優勝した2019年の全英女子オープンでも、最終日に同じ最終組で回ったのがアシュリー・ブハイだった。奇しくも2年前と同じ組み合わせでのラウンドとなったが、渋野の「スイング」は2年前とは大きく変わっている。 トップを極端に浅く、低くし、スイングプレーンをフラットにしている。世界のトッププロが集まったメジャーで見渡しても、異色のスイングだった。ゴルフ誌記者はこう言う。「2020年の全英女子オープンでは、前年優勝者として出場したが予選落ち。その後、転戦した米女子ツアーでも成績を残せなかった。同年末には、青木翔コーチとの契約を解除。世界を目指すスイングに変えていくという目的があったとされ、独学で改造をスタートさせた。石川遼などにもアドバイスを受け、“スイングの再現と精度”を求めて行き着いたのが低いトップのスイングでした」 渋野のスイング改造については賛否がある。今年3月末から4月にかけては米女子メジャーのシェブロン選手権で4位、続くロッテ選手権で2位という結果を残したものの、4月末からは日米ツアーで8戦のうち予選を通過したのは1試合(予選落ち6試合、棄権1試合)だけ。全英女子オープン前は不調に苦しんでいたのだ。 全英でも初日は6アンダーで首位スタートしながら、2日目で7位タイに後退し、3日目に再び2位タイに浮上。安定しないために「ジェットコースターゴルフ」とも呼ばれる。 全英女子オープンの最終日のテレビ中継でゴルフキャスターの戸張捷氏が「(トップの高さについて)第三者から賛否あって、いろいろ言われたが、自分を信じて変えていった。外の影響をほとんど受けなかった」と解説すると、解説を務める樋口久子プロ(元JLPGA会長)がこのように話を引き継いだ。「2019年にメジャー(全英女子オープン)で優勝しているわけですから、すぐにスイング改造するのはどうかと思う。やはり様子を見て、何年か経って壁に当たったりすればちょっと考えるのがいい。極端なものですからね。バックスイングのトップの位置が肩より下にあります。練習でここまで来ていると思う。彼女の努力で……」完成形ではない 試合後のインタビューでは、樋口プロが「結果的にこれからもやっていることに自信が持てますよね」と話し掛け、渋野は「メジャーでこういう結果が出てうれしい。波もありますが自分の心の持ちようによってゴルフが変わるなと思った4日間でした。いろいろ学べました」と答えている。 渋野のスイング改造は批判的に捉えられることも多かったが、今回の活躍で払拭されるのだろうか。プロゴルファーの沼沢聖一氏は、「形で見れば2019年に全英女子オープンを勝った時のスイングのほうがオーソドックスでよかったと思います」としたうえで、トップを極端に低くした渋野のスイングについてこう評す。「現在の肩よりトップが低い形では、体幹に頼ってヘッドスピードだけで打っている。それでも、インパクトゾーンがいいのでボールは真っすぐ自分のイメージ通りに飛んでいます。これは、アマチュアゴルファーが真似したい“お手本”ではないと思います。あの低いトップ位置から、渋野のようなヘッドスピード、高さ、飛距離を出すのは困難。 アッパースイングで打つドライバーはまだしも、ダウンブローで打っていかないといけない2打目以降のクラブで、渋野が正確なインパクトをできるのは豊富な練習量のたまもの。土の上から打っているのと同じような状態になる硬いリンクスの芝でもミスショットがなかったが、アマチュアはふかふかのフェアウエーからでもあの打ち方をしたらダフってしまうでしょう」 そうした難しい打ち方をしていることが、成績が安定しない原因になっていると沼沢氏は見ているわけだ。多くのプロやツアー関係者も、現在の渋野のスイングを完成形とは捉えていないようだ。「今のままだと、フィニッシュまで一気に持っていけるスピードが必要なスイングの形になっています。それを可能とする筋力をキープしなくてはならないことを考えると、長く続けるのは厳しい。だからこそ、まだスイング改造の途中という見方が妥当でしょう。本来、素振りと本番が同じスイングでなければならないが、渋野は素振りではトップが肩より高くて、本番のスイングと形が違う。やはり、まだ理想のスイングは完成していないと想像できます。今回の全英のように結果が出る試合もあるのでいい、悪いは断定できないが、安定的な成績を残すにはまだまだと言えます」(沼沢氏) 渋野のスイングを巡る議論は、この先も続きそうだ。
2022.08.09 11:00
NEWSポストセブン
松山商の澤田氏
松山商「奇跡のバックホーム」指揮官 顧問として母校に戻り「人間力のチーム」で甲子園へ帰還目指す
 夏の甲子園が開幕して熱闘が繰り広げられているが、今年は各都道府県の代表校を決める地方大会で、第1シード校が敗れる波乱が相次いだことも話題となった。今夏、第1シードとして愛媛県大会に臨み、ベスト16で敗れたのが甲子園で春夏通算80勝、7度の全国制覇を誇る松山商業だ。全国屈指の名門ながら、2001年夏を最後に甲子園出場が途切れている同校では、高校野球ファンなら誰もが知る「名場面」を演出した名将が現場に戻り、再建に向け力を尽くしている。新刊『甲子園と令和の怪物』が話題のノンフィクションライター・柳川悠二氏がレポートする。 * * * 唱歌『夏の思い出』でも口ずさむように、「夏が来れば思い出す男です」と自嘲気味の笑みを浮かべたのは、今年4月から母校である愛媛の名門・松山商業硬式野球部の顧問に就任した澤田勝彦氏(65)だ。夏の愛媛大会を目前に控えた7月上旬のある日、松山商業はマドンナスタジアムで練習を行っていた。 高校野球ファンにとっての忘れじの名勝負として、KK(桑田真澄、清原和博)のいたPL学園や横浜の怪物・松坂大輔(元埼玉西武ほか)と共に、甲子園中継や特番などで必ず流れるのが1996年の第78回大会決勝「松山商業対熊本工業」戦での“奇跡のバックホーム”だ。澤田氏は当時、松山商業の監督を務めていた。「ありがたいことに、夏になると奇跡のバックホームの映像を流してくださいます。今年の春はセンバツ中継でも流れたそうです。その度に、いろんな野球関係者から連絡が入りますね(笑)。歴代の錚々たる優勝監督がいるなかで、こうして思い出していただけるのは光栄なことです」 延長10回裏、1死満塁という熊本工業のチャンスに、松山商業の右翼手・矢野勝嗣のところへ大飛球が飛ぶ。浜風に押し戻される白球を前進しながら捕球──それが助走にもなって、矢野は捕手にダイレクト返球。タッチアップを試みた熊本工業の三塁走者・星子崇をアウトにしてサヨナラを阻止した。 1980年に松山商業のコーチとなり、1988年から監督を務めていた澤田氏は直前に、右翼手を矢野に代えていた。神懸かった采配によってサヨナラを阻止すると、11回表に矢野が反撃の口火を切り、夏にめっぽう強いことから「夏将軍」の愛称で知られる松山商業は26回目の夏で5回目の全国制覇を遂げた(春の全国制覇は2回)。大正、昭和、そして平成と、三元号で日本一となっているのは、松山商業だけだ。奇跡的なプレーが生まれるワケ「代えた野手のところにボールは飛ぶ」は野球界の七不思議のひとつだが、そうした定説が頭をよぎったわけではないという。この決断に関しては、野手の交代を迷っていたところ、大会前に亡くなった澤田氏の父の声が聞こえてきた、ともまことしやかに語り継がれてきた。澤田氏は振り返る。「直感やったんかな。何かしらの計算を働かせたわけでもない。土壇場の土壇場で(右翼手を交代する)決断ができた。打たれた瞬間はね……ベンチから見ていて打者の振りも良かったし、打球の角度からして『もう終わったな』と思ったんや。100人おったら、その100人全員が試合終了と思うぐらいの当たりやった。それをアウトにしたんやから、確かに“奇跡”なのかもわからんね」 走者の星子が足からスライディングするのを、田中美一球審は一塁ファウルグラウンド側に立って確認し、捕手のミットが先にタッチするのをはっきりと目視した。「球審の田中さんには、のちにお目にかかりました。打球が上がった瞬間、田中さんも『決まったな』と思ったそうです。ところが、『最後まできちんとジャッジしないといけない』と瞬時に思い直し、結果として最高の見やすい位置に立って、ジャッジを下したわけです。もし、(三塁ファウルグラウンド側になる)捕手の背後に立っていたら、決定的な瞬間を見逃し、セーフと判断してもおかしくなかったはず。『長い審判生活で最高のジャッジができました』とおっしゃっていただきました。 もしあの時、星子君が足ではなく、頭からスライディングしとったら、セーフになったかもわからん。だからあれ以来、私は本塁突入が際どいタイミングの場合は、『頭からいけ』と選手を戒めてきました。もちろん、星子君を批判しとるわけやないよ。星子君も、当たりが大きかったから余裕をもって足から滑り込んだと思う」 夏の選手権大会は今年で104回目を迎えたが、あの奇跡のバックホームは、おそらく100年後も色あせることなく語り継がれていく映像だろう。「なるほど、そうかもしれんね。昭和28年(1953年)に松山商業が全国制覇した時の土佐(高知)との決勝では、凡フライが浜風に押し戻されてポテンヒットとなり、同点に追いついたことから『神風が吹いた』と言われた。昭和44年(1969年)夏の決勝・三沢(青森)戦は、延長18回引き分け再試合となった。そして、奇跡のバックホーム。なぜ松山商業が優勝する時は伝説の試合になるのか──日本一になった日の宿舎で新聞記者に質問されました」 そんな質問をされても、一晩では語り尽くせないだろう──一瞬、澤田氏はそう思ったという。だが、自然と答えが口をついて出た。「松山商業には私立のように能力の高い選手が集まるわけではない。なので、『伝統的に、入部してくれた選手を叩き上げで鍛え、人間力だけでチームを編成するような学校だから、奇跡的なプレーが生まれのかもしれません』と答えた。なまじっか、的外れではないかもしれません」「心」と「辛」の意味 澤田氏は松山商業の監督として最長となる18年の在任期間で、春2回、夏4回の甲子園出場を果たした。コーチ時代の1986年には夏準優勝のチームを文字通りの叩き上げで鍛え、奇跡のバックホーム後の2001年夏にはベスト4にも進出。だが、この年を最後に松山商業は甲子園出場を果たせていない。 澤田氏は2006年に監督を退任し、2010年には北条の監督に。12年間にわたって指揮し、65歳で退職後に母校へ戻った。「力のない子をいかに指導したら、野球の技術を身につけやすいか。勉強になった北条高校での12年間でした。これまでもOBから、復帰を望む声はあったんやけど、現在の監督さんの意向を無視して戻るわけにはいかん。そんな時、大野監督から声をかけていただいた。こんな幸せはありません」 大野監督とは、2020年春に就任した大野康哉監督だ。松山商業が低迷期に入った2000年代に、県内有数の進学校である今治西を率いた。在任15年間で春夏あわせて11度もの甲子園出場を果たした愛媛の闘将といえる存在だ。 名門の再建には、松山商業を誰より知るレジェンドの支えが必要と考えての要請だろう。澤田氏は復帰にあたり、自らに「使命」を課した。「まずは甲子園に出場すること。そしてもう一つ、全国でも松山商業しか権利のない四元号での優勝に挑戦すること。これは使命ではないかもしれんね。男の浪漫じゃろ」 松山商業の部室には、どこか違和感のある「心」の一文字が書かれた額と、木の板に「辛」一文字が書かれた看板がかけられている。だが、「辛」の字もまた縦棒がやけに長い。 点がひとつ足りない「心」の字には「点が一つで心は一つに。点が二つあると心に迷いが出る」という意味が、「辛(しん)」の字には棒が長いことで「辛抱(しんぼう)」という意味が込められている。前者は澤田氏がコーチ時代に、後者は監督時代に設置したものだ。澤田勝彦という野球人の生き様を表す二文字だろう。【著者プロフィール】柳川悠二(やながわ・ゆうじ)/1976年、宮崎県生まれ。2016年に『永遠のPL学園』で第23回小学館ノンフィクション大賞を受賞。新著『甲子園と令和の怪物』(小学館新書)では、ロッテ・佐々木朗希の大船渡高校時代の岩手大会決勝「登板回避」について、当時の國保陽平監督の独占証言をもとに詳細にレポートしている。【写真】撮影・藤岡雅樹
2022.08.09 07:00
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