新年を迎えると、私たちは寺院で除夜の鐘に耳を澄まし、初日の出を拝み、神社で柏手を打つ。しかし、寺院は仏教、神社は神道、日の出を拝むのは自然崇拝と、信仰の対象はそれぞれ異なる。日本人は神仏を大らかに捉える民族といえる。その背景にあるのは、古くから育まれた「神仏習合」の歴史だった。佛教大学歴史学部・斎藤英喜教授が語る。
「欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済から仏教が伝来した6世紀中ごろから、日本人は仏教を異教として排除するのではなく、積極的に受け入れ共存の道を歩んできました。千年以上の長きにわたり、神は仏であり菩薩だったのです」
仏教伝来後、聖徳太子によって各地に寺院が建てられ、仏の教えが日本中に普及していった。一方、神仏習合の支柱となる思想「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」や「護法善神説」が生まれた。
本地垂迹説は、神々を仏・菩薩が人々を救うために現世に現われた“仮の姿”であるとする教説で、10世紀の平安時代にはじまり、平安時代末期から鎌倉、室町時代の中世にかけて広まった。神は人間と同じく煩悩に苦しむ存在で、神は仏になるための修行の過程にあるとされ、奈良時代から各地の神社には苦しむ神が仏法に帰依するための「神宮寺」が建てられた。先駆けとなったのが8世紀前半に建立された気比神宮寺や若狭神宮寺だった。
「僧侶たちが神々に経典を読む『神前読経』が行なわれ、神は菩薩から仏へと成長していきました。南北朝時代に入ると、苦悩する神は人間の苦しみの身代わりとなって人々を救済する存在に変貌したのです」(前出・斎藤教授)
江戸時代になると、キリシタンでないことの証明として機能することになる「寺請制度」が生まれ、民衆は自らの菩提寺を定め檀家となることを義務付けられた。檀家制度の定着によって寺子屋なども生まれ、仏教は日本の隅々にまで根付くことになった。
ところが1868(明治元)年に「神仏判然令(神仏分離令)」が出され、その後廃仏毀釈が席巻することによって神仏習合の長い歴史は終わりを告げた。
「近代の日本は、神と仏を強制的、暴力的に切り離し、峻別することによって長い歴史の中で生み出された多彩で豊かな信仰世界を圧殺しました。大震災や世界的な経済危機など、内外で困難に直面する今の日本は、近代以前の豊かな信仰文化を見直すべき時期に来ているのではないでしょうか」(前出・斎藤教授)
わずかではあるが神仏習合の伝統を伝える品々や行事が日本各地に残る。その場に立てば明治以降の日本の信仰のあり方を再考するきっかになるだろう。
※週刊ポスト2012年1月1・6日号