日本最強の男は誰か──実に興味深いテーマだが、天下を握った豊臣秀吉、徳川家康の策略を打ち砕き、前代未聞の脱出劇を成功させた島津義弘こそ、最強の男といえるかもしれない。
義弘は洒落の一つとってみても豪快な男だった。主君の不在をいいことに、小姓が囲炉裏で火箸を燃やしてイタズラしていると、そこに義弘が姿を現わした。慌てた小姓が囲炉裏の中へ火箸を放り投げる。すると義弘は顔色一つ変えず火の中へ手を入れた。火傷を負いながらも淡々と火箸を取り出す。そこで一言。「小姓どもは悪いことばかりして手を焼かせおる」と。
一方で、決して筋を曲げず、驕ることのない芯の強さももっていた。豊臣秀吉は16代当主で島津家の長男である義久を冷遇し、次男の義弘ばかりを優遇した。これは島津家を分断するための策だったが、義弘は「辱くも義久公の舎弟となりて」と、義久を敬う態度を変えることは一切なかった。
また、島津義弘の名を、広く轟かせたのが、戦国時代最大の脱出劇「島津の退き口」である。
関ヶ原の戦いで、義弘は、小早川氏の寝返りによって敗北した西軍に加わっていた。しかし、東軍に囲まれてもはやこれまでと誰もが思った時、義弘の決断はまさかの「徳川本隊へ突っ込め!」であった。
僅か300人ほどの兵力で8万人とも言われる敵陣に向かっていったのだ。その後、敵陣を目の前に南へと転進。多くの兵を失いはしたが、絶望的な状況だったにもかかわらず、義弘は無事に薩摩へと帰還。この「島津の退き口」は今も歴史に燦然と輝いている。
その後、江戸を中心に徳川の時代が始まるが島津を完全に掌握しきれていなかった家康は、島津討伐を試みるものの未遂に終わり、遂には最後まで島津を切り崩せなかったのである。
※週刊ポスト2013年3月22日号