フリーエージェント(FA)制度が導入されて、今オフで20年が経つ。今年も、西武・涌井秀章(27)などの行使が予想され、すっかりオフシーズンの風物詩となった。
導入から20年も経ったため、球界に様々な影響を及ぼすようになっている。今年、初めてFA移籍した球団で監督になった選手がいる。中日の谷繁元信選手兼任監督(42)だ。谷繁は2001年オフに中日移籍後、12年にわたりレギュラー捕手の座に就き、優勝4回、日本一1回をもたらした。来シーズンには、自身の大洋・横浜時代の在籍年数(13年)に並ぶことになる。
FA移籍から監督への道は、当初、もっと早く実現されることが予想されていた。FA導入2年目の1994年オフ、西武・石毛宏典がダイエーへ移籍した。ここで、“レオの顔”だった石毛は、西武との縁を断ち切った。とはいえ、西武からダイエーに移っていた“球界の寝業師”根本陸夫球団専務を慕っての移籍といわれ、引退後はダイエーで監督になるものと考えられていた。
事実、石毛は1996年の引退後、ドジャースにコーチ留学し、1998年にはダイエーの二軍監督に就任。このまま、一軍監督は既定路線かと思われていたが、わずか1年で二軍監督を解任される。翌年、根本専務が亡くなったこともあってか、石毛がダイエーに戻ってくることはなかった。スポーツライターが語る。
「FA移籍は、新人のときから育ててくれた球団と決別することであり、移籍先でも実績を残さない限り、監督になることは難しい。将来のことを考えた場合、リスクの高い選択ともいえるでしょう」
ましてや日本球界において、1990年代までは、移籍先でそのまま監督に就任した例はほぼなかった。1950年に大阪タイガースから毎日オリオンズに移籍した別当薫が、1952年から兼任監督を務め、引退後も2年間指揮を執った例はある。ただ、1950年は2リーグ制分裂時だったことを考慮に入れなければならない。
「要するに、生え抜き、もしくは完全なる外部からの招聘でなければ、監督に就任するのは難しかったのです。そのウラには、日本球界特有の“外様排除意識”があったのかもしれません。そういう意味では、今回の谷繁監督就任は、画期的なことといえるでしょう」(同前)
しかし、2000年代に入り、大島康徳(中日→日本ハム)、秋山幸二(西武→ダイエー)がトレードでの移籍先で監督に就任している。そして、今オフ、谷繁元信がFA移籍先で監督に就任した。徐々に、歴史は変わりつつある。