宗教学者の山折哲雄さんは、著書『いま、こころを育むとは』(小学館新書)の中で、「個の自立」を促す戦後教育の弊害について、こう書いている。
<個が、今日の単なるわがまま者、わがまま主義に陥っていた。自分のことしか考えない「ミーイズム」などという言葉が流行ったことがありましたが、放縦な自由主義といったらいいのか、極端な個人主義が生まれてきた。自分の欲望しか追求しない人間が、どんどん増えてくるようになりました>
日本人のモラルが低下していると叫ばれて久しいが、その遠因は山折さんのいう“誤った個性偏重”と無関係ではないだろう。傍若無人でマナーすら守れない人が増えるから、ルール化、すなわち規制の箍(たが)がはめられる。
今夏、湘南の海水浴場で物議を醸した<飲酒、バーベキュー、音楽>の禁止令はその典型だ。
「なにも、そこまで細かく規制しなくても……」と思っても、周囲の迷惑を顧みずに砂浜を荒らす海水浴客の行為が目に余っていたのは事実。結局、堅苦しい規制と厳しい監視によって風紀は取り戻したが、浜辺の健全な賑やかさまで失われてしまった。
社会問題化する“歩きスマホ”もそうだ。
駅のホームや階段などから転落する事故が相次ぎ、スマホを操作していない人までトラブルに巻き込まれる事態となっている。やはり我が物顔で節度を守らない人のせいで、罰則を伴う規制を求める声が日増しに大きくなっている。
だが、逐一ルール頼みにしていると、かえって道徳心は薄らいでしまうと懸念する向きもある。
「電車内でベビーカーを畳むべきかという論争がありましたが、わざわざルール化しなければ乗客どうしが気遣えないギスギスした監視社会になってしまったと実感しました。
日本人の順法意識が高いのは立派なことだと思いますが、なんでもかんでも規制で雁字がらめにしていたら、自分で物事の善し悪しを判断する能力もなくなってしまうのではないでしょうか」(50代・高校教諭)
さらに、これまではマナーの範疇で済んでいたものが、ルール化された途端に適用範囲が広がり、しまいには完全に自由が奪われるケースが多いのは、民主主義社会にとって危険な風潮ともいえる。