海軍の精鋭部隊、第343航空隊でスーパーエースと呼ばれた本田稔氏もその一人だ。日米開戦緒戦から終戦まで零戦や紫電改の操縦桿を握り、米軍のF6FやP51、B29などと死闘を繰り広げ、自ら編み出した一撃必中の空戦術により、生涯撃墜数は100機以上とも言われる天才パイロットである。
その本田氏は、戦後に空自に入隊し、ジェット戦闘機F86Fのパイロットとして再び日本の空の守りに就いたが、抜群の操縦技能を見込まれ、若いパイロットの養成と教育を担当し、数多くの戦闘機パイロットを育て上げた。退官後も三菱重工業で22年間もテストパイロットを務めている。航空自衛隊のパイロットと機体は、帝国海軍きってのエースパイロットによって育てられたのである。本田氏は自らの教育哲学をこう語る。
「とにかく自分の技は自分でつくらんといかん。その技では絶対に負けないということです。当時の日本のパイロットや整備員は皆優秀でした。私自身、優秀な整備員のおかげで最後まで戦い続けることができたのです。しかし日本は、敵であるアメリカの研究が足りず、そして自らの研究も足りませんでした。空中戦の勝敗の鍵は、相手と自らの研究にあるのです」
その考え方は、多くの自衛隊のパイロットたちにいまも受け継がれている。本田氏は92歳になるいまもご健在だ。
彼らの根底にあったのは、「日本人の手で日本の国土の防衛を」という強い思いである。それにもかかわらず、旧軍と自衛隊は無関係だと強弁するのは、彼らの祖国を守ろうとする思いやこれまでの尽力を侮辱するようで、筆者には許しがたい行為に思える。
※SAPIO2015年8月号