ハリウッド進出を試みる日本人俳優は今もいるが、誰もが知るトップスターにのぼりつめた日本人は、約100年前に活躍したハヤカワしかいない。1910年代、映画草創期のハリウッドでは「喜劇のチャップリン」「西部劇のハート」そして「悲劇のハヤカワ」といわれた。チャップリンはいわずもがな、ハートとは哀愁溢れる演技で観客を魅了したウィリアム・S・ハート、そしてハヤカワとは早川雪洲のことだ。
千葉県出身の早川は21歳の時、地元沖で座礁した米国客船「ダコタ号」の救出活動で得意の英語を生かせたことを契機にアメリカへの夢を抱く。その4か月後には渡米し、シカゴ大学で学んだ後ロサンゼルスの日本人向け劇場で芝居の公演をして回るようになった。
その後、スパイ活動に従事する日本人役で舞台『タイフーン』に出演。これが米映画界の大物プロデューサー、トーマス・H・インスの目に留まり、ハリウッド映画進出に繋がる。
続いて出演したセシル・B・デミル監督の映画『チート』でその名を全米で知られるようになる。若く、金持ちでプレイボーイの日本人美術商「ヒシュル・トリ」を演じた早川は、借金のカタとして得た白人女性の肩に自らの所有物の証として焼きゴテを当て、独占欲を満たす。エキゾチックな顔立ちの早川の美貌と冷酷な演技は、多くの米国人女性を魅了した。ノンフィクション作家で静岡県立大学名誉教授の前坂俊之氏はこう語る。
「早川が現われれば女性ファンが何重にも囲み、彼の目の前に水溜まりがあれば女性たちが我先にと着ていたコートをそこに敷き詰める。それほどの人気ぶりだったそうです」
だが「残虐・好色で非人道的な日本人」という設定だったことが、日本国内、在米邦人たちから反発を受け、「国辱俳優」と罵られた。そのためか、当時彼が出演していたハリウッド映画のほとんどは日本では公開されていない。だが『チート』が全米で大ヒットを記録、「ハヤカワ」の名が轟くにつれて、邦人たちの意識が変わることになる。
当時、チャップリンのギャラが週給1万ドルだったのに対し、早川はそれに次ぐ8500ドルだったというから、その成功ぶりが窺える。
1973年に死去するまで米英仏独70本の映画に出演。1957年には歴史的名作『戦場にかける橋』に出演し、俳優としての地位を不動のものとした。彼の名は、ハリウッド大通りにある「名声の歩道」に今も刻まれている。
※週刊ポスト2016年1月1・8日号