超満員で席に座り切れない観客がタッチライン際に腰を下ろす中、ジャパンは母国相手に死闘を演じた。第1戦後に緊急搬送された病院を脱け出して強行出場した小笠原博が壮絶な肉弾戦に挑み、のちに阿修羅・原としてプロレス入りする原進(故人)がスクラムで獅子奮迅の奮闘を見せた。フォワードが死に物狂いで確保したボールをバックスがギリギリの接近戦で展開し、体格に勝るイングランドの怒涛のアタックを桜のジャージが身を挺して止めた。
惜しくも3-6で破れたが、ラグビー母国の猛攻を凌いでノートライに封じ込め、詰めかけた2万3000人の大観衆は日本ラグビーの雄姿を瞼に焼きつけた。
この激闘で燃え尽きたのか、以後のジャパンは長い停滞期に入る。時折目覚めたかのように好試合を見せるものの、安定した力を発揮することはなかった。
苦境の中で一筋の光明を見出したのは、1989年5月28日に秩父宮ラグビー場で行われたスコットランド戦だ。4か月前に就任した宿沢広朗監督(故人)のもと、故・平尾誠二キャプテンが率いるジャパンは吉田義人、朽木英次ら自慢のバックスが快心のトライを決めて、28―24で当時の「世界8強」から初勝利をゲットした。この試合にフランカーとして先発した大八木淳史氏はこう振り返る。
「桜のジャージのエンブレムを見たら“玉砕精神でこの試合にすべてを賭けよう”と気持ちがえらく高ぶりました。“世界に通じるラグビーをしていこう”との目標を掲げた宿沢さんは、スコットランドを徹底的に分析して弱点を見出した。接戦を制した瞬間は歓喜そのものやったな。次の日、平尾と林(敏之)さんと伊豆でゴルフしたのがいい思い出ですわ(笑)」
1991年の第2回W杯でジンバブエ相手にW杯初の1勝を挙げ、蘇りつつあった自信が完膚なきまでに叩きのめされたのは1995年の第3回W杯。予選プールで対戦したニュージーランドに“子供以下”の扱いをされて17-145という歴史的な大惨敗を喫した。ラグビージャーリストの小林深緑郎氏は、ジャパンの暗黒時代をこう語る。
「この試合の映像がW杯のたびに繰り返し会場に流されて気が滅入りました。アマチュア時代のジャパンにはW杯で体感した強豪に追いつくための強化プランが作れず、W杯での1勝が目標となった。そして日本ラグビーに対する国内外からの関心も失われました」
以降、2007年の第6回大会終了時までW杯は16敗2分けで1勝もできなかった。
どん底のジャパンを誇りの持てるチームとして復活させたのが2011年に代表監督に就任したエディ・ジョーンズだ。前任者は世界に対抗するため選手の大型化を進めたが、エディは敏捷性や勤勉さ、忍耐力といった日本人の特性を活かす「JAPAN WAY」を掲げた。そこから垣間見えるのは、古き良きジャパンへの「原点回帰」だ。