知識も新陳代謝が必要だ
人間は、忘れるようにできている。だとしたら、記憶力の悪さは「欠点」なのだろうか。自己弁護するつもりはないが、「忘却力」というのも生きるうえでプラスに働くこともあるのではないか。
まず、嫌な目にあっても、忘れることで心を穏やかに保つことができる。ぼくは、嫌なこともたいてい忘れてしまう。悪口を言われても、根に持たない。憎しみを持ち続けるなんてことはこれまで一度もなかった。悲しみも、時が経てば薄れていくように、忘却力が心の「日にち薬」になっていく。
忘却は、思考の整理になるというのは、ベストセラー『思考の整理学』(ちくま文庫)で知られる外山滋比古氏である。忘却と記憶は、吸って吐く呼吸のように一対で、忘れるからこそ、新たな記憶ができると考えている。
この考え方はとても納得できる。中高年になると、若いころに得た知識をずっと覚えていて、それが古くなっていることに気が付かないことがある。でも、忘れることができるからこそ、新しいことを記憶することができる。知識の新陳代謝がなされるのである。
外山氏は『忘却の整理学』(筑摩書房)のなかで、こんなことも書いている。
「コンピューターは記憶の巨人である。(中略)完全に大量の情報を記憶し、それを操作、処理する能力をもっている。完全記憶を実現しているが、個性がない。忘却ということを知らないからである。記憶力だけなら人間はコンピューターにかなわないが、忘却と記憶のセットで考えれば、人間はコンピューターのできないことをなしとげる」
なるほど。忘却という情報の選択は、その人らしさ、個性につながるということなのだ。
可視化することで記憶を生かせる
忘れることの最も大きな副産物は、頭の中の消えてゆく記憶を記録して可視化する方法を生み出したことだと思う。忘れてしまってもいいように、脳の外に記憶をためておくのだ。
ぼくは、毎日の出来事を10年日記に書いたり、ブログ「八ヶ岳山麓日記」に綴っている。本の感想を書きこむ読書日記もつけている。先日、10年日記に書き込んでいたら、ちょうど1年前のこの日、Aさんが亡くなったことに気が付いた。すぐに、Aさんの家族に電話をかけた。
記憶力がよい人だったら、頭の中で「ああ、Aさんの命日だな」と思って、その後は何も行動しないかもしれない。でも、記憶が紙の上で可視化されると、その記憶がもつ意味をはっきりと確認することができるから、ご家族に電話をするという行動にもつながりやすい。記憶が可視化されれば、より生かしやすくなるということだ。
ぼくの電話に、Aさんのご家族はとても喜んでくれた。すっかり忘れていたことは、もちろん内緒にしておいた。