『週刊ポスト』(7月28日発売号)では、昭和の偉人たちの「最期の言葉」を特集している。家族だから知る心を打つエピソードが数多く語られているが、そのなかで俳優の若山騎一郎さんは、生まれてすぐに母・藤原礼子さんと離婚した実父・若山富三郎さん(故人)との思い出を明かしている。実はインタビューでは、叔父(富三郎さんの実弟)である勝新太郎さん(故人)、その勝さんや富三郎さんと親交の深かった山城新伍さん(故人)とのエピソードも明かしていた。本誌では紹介できなかった逸話を改めてお届けする。
* * *
おじちゃん(勝さん)の言葉で俺が強烈に覚えているのは、下咽頭がんで入院(1996年)する前月まで上演した、おばちゃん(中村珠緒さん)との共演舞台『夫婦善哉 東男京女』の時のこと。たぶん本人はがんになったことを知っていたんだと思うけど、俺が舞台を観に行った時に、楽屋でこう言った。
「お前、この舞台は3回観ろ。センターと上と下で分けて観ろ。いいか、おじちゃんはこういう芝居をやる。上ではおじいちゃん(実父の杵屋勝東治さんのこと)の芝居をやる。こっち側ではお兄ちゃん(富三郎さん)の芝居をやる。ようく見て目に焼き付けとけ」
なんでそんなことを言うのかなと思ったけど、仕事のうえでは最期を悟っていたのかもしれない。その言葉は、いま思い出しても泣く。俺はなんだかざわざわした気持ちになって、地方公演も観に行った。おじちゃんがイライラしているらしいと聞いて挨拶に行ったら、「みんなお前のことを心配している。大丈夫だよな?」と言われた。その頃は病気で喉が痛かったりしたんだろうと思う(勝さんは翌1997年6月に逝去)。
おじちゃんもそうだけど、親父が死んだ時(1992年4月)に父親代わりになってくれたのは山城新伍さんだった。おじちゃんには年に2回くらいしか会わなかったのに、新伍さんとは週に1、2回食事したりしていた。新伍さんは親父の一番の舎弟だったし、家が近かったから毎日のように誘ってくれたの。今日は何やってる? どこそこへ食べに行くぞ、カラオケに行ってからネエチャンとこに飲みに行こう、麻雀やろう、とか。芝居も教えてくれたりしてね。