当初、重光は現在の国際連合のような国際機構のアジア版を構想しましたが、壮大すぎて理解されませんでした。しかし、その後1943年11月5日にアジア各国の指導者を東京の帝国議事堂(現国会議事堂)に集め、「大東亜会議」を開催しました。
会議には大日本帝国のほか、中華民国、タイ、満州国、フィリピン、ビルマが参加し、オブザーバーとして自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが出席。大東亜の共存共栄、各国の自主独立、各国の伝統の尊重、大東亜各国の提携による大東亜の繁栄、人種差別の撤廃という五原則を謳った「大東亜共同宣言」を採択しました。
人類史上初の人種平等宣言は大西洋憲章の欺瞞性を暴き、欧米諸国に大きな衝撃を与えました。これ以降、アジア、アフリカでの欧米の植民地政策を批判する欧米メディアまで登場したのです。
一方でアジアの多くの国には列強支配を打ち破る勇気を与えました。戦後の1955年にインドネシアで開かれたアジア・アフリカ会議に参加した加瀬俊一氏(初代国連大使)はアジア・アフリカ各国の代表から「日本のおかげで我々は独立できた」と握手責めにあいました。
敗戦後の日本にはあの戦争を侵略戦争と断じる東京裁判史観が浸透しましたが、重光が構想した大東亜宣言とアジアの解放こそが日本における外交の考え方であり、だからこそ今でもアジアには親日的な国が多いのです。
●文/福冨健一(作家・歴史資料収集家)
※SAPIO2015年12月号