もちろん、政府や当局が掲げる理念、取り組みのすべてが悪いというわけではない。彼らが腰を上げ、実際に行動を起こしたことで「助かった」と思う弱者だっているはずだ。
私が取材した限り、SNS上の自殺志願者の多くが、本当に死にたいとは思っておらず、つぶやくこと自体で彼ら、彼女達はなんとか生きていけている。そこに過度な介入、例えば、リスティング広告のように機械的で執拗にカウンセリングを勧められたり、公的機関からの連絡が行くような場合、自殺志願者は嫌になり行き場を失うか、よりディープな場所で孤独に、死について考えなければならない。
確かに「死にたい」とつぶやきがちな人は、悪いきっかけと出会ってしまうと、本当に死に至ることがある。だから何らかの対応が必要なのは間違いないが、それは押しつけがましいものであってはならないだろう。
「ある意味で“カジュアル”に死にたいとつぶやける空間があることは重要。死にたい、というつぶやきや発言は、私たちの普通の人達にとって意味合いが違いすぎるんです。不幸な事件はありましたが、今まで見向きもしなかったくせに、いきなり干渉してきて”助けてあげる”と言われても……」
自殺を仄めかすツイートをしていた別の女性は訴える。必要なのは「死にたい」という人々を発見したり、自殺の防止に取り組むことだけではない。
かつて自殺者が年間3万人を超えたときは、不況の影響を受けて経済的に悩みを深めた中高年の自殺が目立った。その後、法律をつくってまで対応しつづけた現在の対策は、その世代に対して有効なものだろう。「死にたい」ことへの願望の持ち方や日常的なコミュニケーションの場が異なる若年層の自殺に対しては、異なる方法が必要とされている。
そしてさらに死にたい人々を作り出さない、死にたいほどまで人々が追い込まれることがないという風潮作りこそが、何よりも優先されるべきだと思う。