僕の反論はこうです。社会現象が起きているという事実を完全に無視していいとするならば、それは社会にいる少なくない人々を無視することと同義です。僕は、ここに日本における「分断」やSNSの問題点が集約されていると考えていました。大きな問題を描かずに、自分が属する陣営に利するかそうでないかなどと影響力のあるニュースの発信者たちが考えているのは、視野が狭すぎますし、良いニュースを生み出そうとする態度ではありません。
ここでもう一度、ホックシールドに戻ります。彼女はなかなか興味深いことを書いていました。
《わたしたちは、川の“向こう側”の人に共感すれば明快な分析ができなくなると思い込んでいるが、それは誤りだ。ほんとうは、橋の向こう側に立ってこそ、真に重要な分析に取りかかれるのだ。(中略)米国が二極化し、わたしたちが単におたがいを知らないだけだという実態が進んでいけば、嫌悪や軽蔑といった感情がやすやすと受け入れられるようになってしまうだろう》(『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』)
「友」か「敵」かの分断を乗り越える
川を渡って動き、現代日本の「空気」を象徴するような人物とその周辺を掘り下げることで、何十年後かの人たちに2020年前後の記録を残す。取材では「注意深く執念深く耳を傾け、相手の人格や個性が透けて見えるような情景を描き切る」(ゲイ・タリーズ『有名と無名』)ことに執着しました。
メディアでも陣営化が進み、「敵を取材するやつは敵」という論理がはびこっています。「もっと厳しく批判的に書かないとダメだ。こんな書き方はおかしい」という批判がジャーナリズムの世界にいる人々からもやってきましたが、僕は僕で直截的な言葉の強さではなく、歴史認識ならば歴史学の、SNSの特性にはデータに基づきより本質的な批判を試みています。「強い言葉」で批判してほしい、というのは「もっと溜飲を下げる書き方をしてほしい」と言いたいだけにすぎません。
古いジャーナリズムの陥った隘路に、新しい時代のメディアとなるはずだったインターネットも迷い込もうとしています。うけるのは「わかりやすい話」ばかりです。「良いニュース」は、反権力か否か、自分たちにとって「友」なのか「敵」かの分断を自由に乗り越えていけます。
僕が雑誌というフィールドで取り組んでいるのは、古今東西、世界中のライターがやってきたように、知ろうとするために無駄を重ねるということに尽きます。新聞記者時代で培った基礎を軸にして、取材対象に合わせて方法を変えていくだけです。
たった一言を聞くために外で何時間も待ったり、絶対に取材を受けないと言っていた人物に向けて手紙を書いたり、「やっぱり取材は遠慮したい」という相手を繰り返し何度も説得したり……。こうした事実を集めるための無駄な時間が、力になっていきます。