自分と人を比べる傾向が女性は強い
芸事はもちろん世事にも疎い志乃は、〈どうしてこのお人は私を女房にしたのだろう〉と悩み、武家の娘だから役に立てるのか、それとも役者の女房になりきるべきなのか、常に揺れ動く。
また、看板役者を夫に持ち、よく嫉妬に駆られて騒ぎを起こす〈お富〉や、夫のために妾を選び、〈わてはあの人の芸に嫁いだんや〉と言い切る〈お才〉とも志乃は親しくなり、船橋屋の芋羊羹などつつきながら本音を言い合う仲となる。
「実はお富やお才にはモデルがいて、実際の評判記の寄せ集め的人物なんですが、水茶屋の娘から関西人まで、いろんな背景をもつ女房を登場させたかったのは確か。というのも私は今作で、なぜ女性は自分と人を比べる傾向が男性より強いのか、そして『仕事と私とどっちが大事?』という一見よくありがちな問いについても突き詰めて書いてみたくて、自分自身も含めた女性性や、役者はどこまでが役者かを、女形とその妻を通じて浮き彫りにしたかったんです」
そもそも嫉妬や執着や、誰の心にも魔が潜む事実を、歌舞伎はよりわかりやすい形で物語化してきた。
「先ほど言った人と自分を比べがちな傾向というのも、私自身がイヤだなあと思う部分で、自分に自信が持てなくてもがく人の気持ちは、今も江戸時代も変わらない。現にその評判記にもお富みたいな情深な妻がいたり、完璧なはずの団十郎の妻が人知れず傷ついていたり、それを芸の肥やしだと言う人も怒る人も当時から両方いて、比率が変わっただけだと思うんですね。むしろ私はそういう多様な人々の目や耳や鼻が何をどう感じたか、その人になり切った身体感覚として書いていけたらと思っているんです」
やがて芝居の魔力を恐れ、距離を置く志乃の内面をも燕弥の演じる物語は浸食し始め、戸惑う彼女の様子を〈頭の中の風呂敷をきゅっと締め直し〉と表現するなど、体の中を情報が出入りする生身の感覚が新鮮だ。
「型に嵌まる方が楽は楽ですけどね。志乃が女としてあるべき型を求めたように、料理上手で掃除好きがいいみたいな型は今でもあって、だからこそ親や世間に押し付けられた価値観やそれに縋ろうとする自分を彼女が乗り越える話にしたかった。妻や夫というのも一種のラベルですし、個人的にはもっと名前の付けられない感情や関係に惹かれる傾向はあるかもしれません」
〈言葉にできねえものこそが、いっち凄くて、いっち恐ろしいんです〉と志乃が忠告される場面があるが、役者とその妻の2人なりの関係を描く、時代に拘り、時代を超えた、小説としか言いようのない小説だ。
【プロフィール】
蝉谷めぐ実(せみたに・めぐみ)/1992年大阪府豊中市生まれ。早稲田大学文学部で演劇映像コースを専攻し、化政期の歌舞伎をテーマに卒論を執筆。「その頃、児玉先生に勧められたのが落語で、六代目圓生師匠の語り口は五七調をリズムよく書く上で勉強になりました」。広告代理店勤務を経て、現在は大学職員。2020年『化け者心中』で第11回小説野性時代新人賞を受賞しデビュー。翌年、同作で第10回日本歴史時代作家協会賞新人賞と第27回中山義秀文学賞を受賞。153cm、A型。
構成/橋本紀子 撮影/国府田利光
※週刊ポスト2022年2月11日号