明治の「小石川療養所」とも言うべきこの組織は、現在も社会福祉法人恩賜財団済生会として全国各地に病院を経営しその理念を継承している。「済生」とは「生命を済う」という意味だ。この勅語は同年の二月十一日、つまり紀元節の日に桂太郎首相に与えられた。きわめて印象的な日付であり、いわゆる「天皇ファン」は「やはり今上陛下は名君だ」という思いを深めたことだろう。ちなみに、明治三十年代に新聞社に勤務していた俳人正岡子規の月給は「四十円」だった(自筆墓碑銘による)。これから換算すると、下賜金はかなりの額にのぼることがわかるだろう。
民間でも、社会福祉を主な目的とするキリスト教のプロテスタントの一派である救世軍が山室軍平(明治5年生まれ)らによって日本でも定着し、貧民への医療救済などを行なっていたのだが、啄木の生涯を見ると病魔とそれを克服するための借金の連続で、このような団体の恩恵には一切与かっていない。社会主義に関心がいくのも当然かもしれない。
啄木は優秀な頭脳の持ち主で、いまでいうジャーナリスト的な「嗅覚」も持っていた。幸徳秋水の「大逆事件」は、当初は「無政府主義者」が「爆裂彈を密造し容易ならざる大罪」を犯そうとしたので逮捕された、と報じられた。すなわち、「大逆」の二文字は当初の報道には無かった。ところが、当時朝日新聞社に勤務しさまざまな部署とのコネクションを持っていた啄木は、検察が幸徳らを刑法の「第七十三條」で起訴したという情報を入手した。
第七十三条は、言うまでも無く「大逆罪」を規定している。つまり、われわれが歌人として日本史のなかで記憶している石川啄木は、じつは当時の日本人のなかでいち早くこれが「大逆事件」であると気がついた、数少ない一人なのである。これまでに何度も言ったことだが、歴史はあまりに広範な情報であるので、とりあえずは政治経済、社会および文化など分類して研究し教育するのは便宜上やむを得ないが、たまにはこうして相互の「絡み合い」を見ることも絶対に必要なのである。それが真の歴史という複雑で時に難解なものを理解する最大のコツの一つだ。