孤独な想いをぶつけた「日記」
この時代、女子教育の必要性を説く父親は珍しかった。その意味において勝五郎は奇特な存在だったが、敬子は寂しかった。同級生と離れ離れになるからだ。
「何で根岸なんかに行くの?」
「どうして一緒に大鳥に行かれないの」
卒業式の日、クラスメイトに口々に問われたが、返す言葉がなかった。父の決めたことは絶対なのだ。
いざ、通い始めた横浜市立根岸中学校だったが、初めての1年生のクラスは誰一人知らない顔ばかりだった。校区外だから無理もない。にもかかわらず、クラス全員が敬子のことを知っていた。健康優良児に選ばれた田中敬子を、横浜市内で知らない者はいなかったのだ。だからと言って歓迎ムードとは程遠く、どことなくよそよそしかった。中には「何で根岸になんか来たの」とあからさまに言う子もいた。何より「レベルが高い」と聞いていた根岸中だったが、さほどでもなかった。むしろ低かった。「あのまま大鳥に行きたかった」と思った。
小学校のときの親友の洋ちゃんとは「月に一度は必ず会う」「月に一度は交換日記をする」という約束をかわしていたが、半年ほどで反古になった。新しい友達とよろしくやっているのかもしれない。
田中敬子が初めて孤独を味わったのは中学校に入って間もなくである。「孤独ってこういうものか」と反芻した。家に帰れば両親はいつも忙しそうで、弟たちは毎日騒いでいる。悩みを打ち明けられる対象とは思えなかった。
少女が日記を書き始めたのは必然だったかもしれない。自分の悩みを自身に打ち明け、問い掛けることで、答えを見つける以外方法がなかったのだ。日記は昭和30年1月14日(金)から始まっている。田中敬子、中学1年生である。