「東大や京大にいっぱい合格者を出しているっていうのは聞いていたから、“これは駿台に行くしかない”って思って通い始めたんです。横浜から御茶ノ水まで遠いんだけどね。でも、どうせICUに受かったら東京まで通うわけだから、予行演習みたいなもんだと割り切ってたの」(田中敬子)
教室の中は100人ほどの予備校生で溢れ返っていたが、女子生徒は10人もいなかった。好奇の視線に晒されなかったわけではないが、敬子は別段気にならなかった。授業内容は至ってシンプルで、英単語、英文法、英文読解をひたすら繰り返し頭に叩き込むというものである。
「結局のところ読解力なのよ。英文をひたすら読んで、それを理解させるのは数をこなすしかないわけ。時々“何でこんな勉強ばっかやってんだろう”とか“実生活で役に立つわけない”とか思わないでもなかったけど、外交官には絶対に必要だと思った。会話だけ出来ればいいわけじゃないしね。外国の国家機密を読むこともあるだろうし、怪文書を解読する必要だってあるんだもの」
敬子にとって「外交官になりたい」という子供の頃からの夢が潰えることなく、むしろ年齢を重ねるごとに強くなっていったのには、1学年上の大宅映子の影響ばかりでもなく、れっきとした理由もあった。
電車内で見つけた「求人募集」
「こういうことを言うと、古臭い人間と思われるかもしれないけど“お国のために役に立つ人間になりたい”って想いが子供の頃から強かったの。だってほら、父親は警察官だから余計にそういう影響は受けていたし、中学生のときは神奈川国体で国旗掲揚までやってるでしょう。昭和天皇のことも皇太子さま(現在の上皇)のことも好きだったしね。この時代は『女は家庭で子供を産んで夫を支える』って価値観で、別にそれはそれでいいと思ったんだけど“家庭に入る前にはせめてお国のために働きたい”って思ったわけ。外交官なら『立派なお国の仕事』って堂々と胸を張って言える。だから諦めるわけにいかなかったのよ」
駿台予備校に入学して半年ほど経った、初秋の季節である。総武線の車内に貼ってある1枚の求人募集が目に留まった。
そこには「日本航空客室乗務員・臨時募集」とあった。
(文中敬称略。以下次回、毎週金曜日配信予定)