こうしたディミアン・チャゼルのこだわりが特定の誰かを傷つけたり貶めたりしているだろうか。こだわりこそもの作りの源である。もの作りの源を「白人中心主義」と切り捨ててしまうことは、果たして「正しい」のだろうか。それがまかり通ったら、ミュージシャンが「影響を受けたバンドは?」と質問され、「ビートルズ」と答えたら、それも「白人中心主義」になってしまう。文化とは過去の模倣とそこからの解放で始まる。模倣の対象が白人だともれなく「白人中心主義」になるのだろうか? 作り手は常に自分の良心や正義と向き合いながら創作をしなければならないが、同時に、過剰な規制による萎縮とも戦わなければならないのが現状である。
それにしても、このコンプライアンスを理由にした掲載見送りに関して、メディアの編集者という安全な位置から立場の弱いフリーランスに対して、なんの対話もなく一方的に不掲載を告げることに一切の疑問を持たないのが不思議である。物書きは原稿料のためだけに書いているのではない。自分の書いた原稿は世の中に出す価値があると信じて、日々仕事をしている。原稿料さえ払えばどうとでもしていいという考えには到底同調できない。私は受け取りを拒否して、信頼のできる他社の編集者に事情を説明し、モデルとなった女優がデートリッヒと親交があったことだけ補足した原稿を送り、掲載を頼んだ。何の問題も見当たらないとの判断で、WEBメディアに掲載してもらった。私の名前と作品名で検索すれば読めるはずなので、この原稿が「多様性やハラスメントについて疑問が生じる」のか「白人中心主義的」かどうか、確かめていただきたい。
某媒体では『バビロン』について他にも寄稿している方がいる。かなり否定的に書かれているそうだ。一つの作品についていろいろな見方があるのは健全だ。WEBも含めた概念としての雑誌は違った意見が同居するからこそ「雑」誌である。某媒体も根本の姿勢は雑誌のはずだが、いつの間にか雑誌ではなくなっていたのか。
第三者に確認したところ、原稿の見送りはそれ以外にも「原稿にキレがない」なども理由だという返答があったようだ。それを伝えずに「多様性やハラスメントに触れる箇所について疑問が生じる」だけを理由とするのは、こちらが反論しにくいからと踏んだからだと私は考えている。コンプライアンスを理由にすれば、たいていの人は一瞬躊躇する。さまざまなケースがある中で、果たして自分の行いや主張が「合っている」のかどうかわかりにくいだろう。しかし、安易に反論しにくい「差別やハラスメント、多様性」を理由に物事を通すのは大変危険な発想だと思う。「差別やハラスメント、多様性」は道具ではない。
私は、物語を書くし、食や車や暮らしについてのエッセイも書くが、ハラスメントや差別、多様性について書くこともある。「有識者」ではない立場だからこそ書くことも必要だと思っている。今回のことでなおさらそう感じたし、より慎重に、決して正義やイデオロギーに悪酔いすることなく取り組まなければと気を引き締めた。
◆甘糟りり子(あまかす・りりこ)
1964年、神奈川県横浜市出身。作家。ファッションやグルメ、車等に精通し、都会の輝きや女性の生き方を描く小説やエッセイが好評。著書に『エストロゲン』(小学館)、『鎌倉だから、おいしい。』(集英社)など。最新刊『バブル、盆に返らず』(光文社)では、バブルに沸いた当時の空気感を自身の体験を元に豊富なエピソードとともに綴っている。