差別表現が掲載された出版物は回収し、破棄しないといけないこともあり、実利的な損害にもつながります。「差別してはいけない」ことは、当たり前であり、完全な正義です。それに対しては、誰も口を挟むことはできませんし、甘んじて糾弾を受けるほかありませんが、頭ではわかっていても、その糾弾闘争のスタイルがマスメディアの間に「言葉選びをひとつでも間違えると大変なことになる」という恐怖心を生みました。それが結果的にメディア側に「同和差別問題は報じにくい」という意識を芽生えさせ、被差別部落問題への取り組みをためらわせることになってしまったと考えています。
私はフリーランスのジャーナリストとして長年、取材活動をしてきました。その中で、何度となく、同和問題に関連する企画を出版社や新聞社などに持ち込んできました。しかし、媒体側からは、「理屈ではなく、報じることは難しい」と取り合ってもらえないことがほとんどでした。
それが、日本のマスメディアによる、同和問題のタブー視の現実です。その象徴的な出来事が、1974年11月に起きた八鹿(ようか)高校事件でしょう。
兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)にある八鹿高校の下校時、解放同盟員らが教員47名を12時間半にわたって校内に監禁。29名に無理やり自己批判書を書かせて、教員の大半が全治1週間から2か月の怪我をしたという、前代未聞の集団暴行事件でした。しかし、マスメディアは当時、この事件をほとんど報じませんでした。全国紙は、県版で扱うか、全国版ではベタ記事扱い。事件の規模からすると、明らかに過少な報道と言えます。
事件翌日、『朝日新聞』は地元の兵庫県版で「もみあい10人けが」という見出しで、たった72行の記事を出しました。一方で、共産党機関紙『赤旗』は同日、「教師に血の集団リンチ」として一面で報道し、共産党も連日、記者会見を開いたが、朝日新聞はこれを取り上げませんでした。朝日新聞がやっと長文の記事を掲載したのは、事件が国会で取り上げられた、6日後のことでした。
当時のことを振り返って朝日新聞の記者は、「差別に立ち向かうにはある程度激しい糾弾も許されるという考えが、一部には批判もあったが、大阪本社内で強かった」と述懐しています。ほかのマスメディアも同じようなものだったのでしょう。明らかな暴行事件なので、「激しい」という表現で済ませられることではありませんが、それだけ部落解放同盟の糾弾闘争にメディアが“忖度”していたということです。