山之内は1年秋から試合に出場するようになり、しばらくして長距離砲としての才能が開花する。ある日の練習試合で、サヨナラ満塁ホームランを放ち、阪神ファンの先輩が「九州のバース」と名付けたという。
「1年の終わりぐらいにはプロのスカウトも見にくるようになっていました。まあ、最初は前田がお目当てだったと思いますが(笑)」
最後の夏、甲子園初戦となる法政二(神奈川)戦の第1打席で、外角低めの直球に対し身体を沈み込ませ、すくい上げるようにバットをコントロールしてバックスクリーン右に運ぶ。そして第4打席でもインハイの直球を思いっきり引っ張り、相手の右翼手が見上げることしかできない特大の本塁打を叩き込んだ。
「第1打席という緊張の中、うまくヘッドを返して打てたのが1本目。やっぱり2本目の豪快なホームランこそ、自分のバッティングだったと思います」
◆花巻東の佐々木は「痩せる必要ない」
1988年に南海ホークスがダイエーに売却されることが決定し、本拠地が福岡になることに。同年のドラフトにおいて、新球団の目玉新人として指名されたのが山之内だった。指名順位こそ5位だったが、それまで主砲を務めていた門田博光が付けていた「60」の背番号を与えられたことから、期待の大きさがわかるだろう。
「入団して早々に、球団からダイエットを命じられた。先輩の“ドカベン”香川さんと僕のふたりのために、球団が1000万円を投じて福岡大学にプロジェクトチームを作り、減量することになったんです。プロのスピードボールや変化球に対応するためには、痩せたほうがいいという球団の判断だったんでしょう。ケガのあった1年目、アメリカに留学させてもらった2、3年目を経て、体重は90キロ台にまで減りました。しかし、高校時代のようなイメージでバッティングができない。引き締まった身体でのアジャストができなかったんです」
結局、一軍では8打席立っただけで本塁打は1本もなく(4三振)、1994年オフに戦力外に。
「今から考えると、高校時代の体格のまま、チャレンジさせてほしかった。それで通用しないと受け入れてから初めて、肉体改造に取り組んだほうが良かったのではないかと思います」
高校通算本塁打140本という花巻東の佐々木も、識者から「プロで活躍するためには痩せたほうが良い」というような指摘を受けている。
「痩せる必要ない。今の身体で140本も打っている。高校生なんだから、まずは同じやり方がプロで通用するのか、チャンスを与えてあげるべきだと思います。減量はそれからでも遅くないでしょう。僕と同じ失敗をしてほしくない」
居酒屋経営者にして現役歌手の元プロ野球選手という肩書きだが、もちろんいまも、野球との関わりは続いている。あらゆる事情で野球ができなくなった球児や、プロを目指している若手選手に対して野球塾を開催し、独立リーグや近隣の大学に選手を送り込んでいるという。
◆取材・文/柳川悠二(ノンフィクションライター)