身元が判明した翌日から新聞や他局のテレビでも大きく報じられた。中でも注目されたのは、なぜこうしたことが起きたのか、ということだ。家族が捜索願を出した東京の警視庁と、保護した側の群馬県警の双方で直ちに検証が始められた。
その結果、群馬県警の人為的なミスによるものだったと判明した。三重子さんを保護した館林署員は、県警内外で情報を共有するために「迷い人照会書」を作成。そこには「下着(パンツ)にエミコと書いてあった」という書き込みがあった。ミエコではなくエミコ。誰が、いつ、なぜエミコと間違えたのかは分からないという。
警視庁では、全国の行方不明者の情報を共有するオンラインシステムに「柳田三重子」という名前と読みがななどを登録していた。群馬県警が三重子さんを保護した当初から「ヤナギダミエコ」という正しい名前で把握していたら、警視庁の登録名と合致したはずだった。
説明を聞き終えた滋夫さんは、憮然とした表情で「人の人生がかかっていることで、ミスをしました、では済まされないと思います。妻をもっと早く見つけ出すことができていたら、様々な治療法を試して、病気の進行を遅らせる手助けをしてやれたかもしれない。そう思うとやりきれません」
柳田三重子さんが家族と再会した一連のニュースと番組は大きな反響を呼んだ。新聞の社説などが認知症や認知症の人の介護について取り上げ、社会全体で支援の輪を広げることを提案。行方不明者を早期に発見する仕組み作りが急務だと訴えた。国も動き始めた。警察や厚生労働省が対策に乗り出し、実態調査や自治体などとの情報共有、情報公開によって、新たに身元が判明した人もいた。
家族との再会からおよそ半年後、柳田三重子さんはおよそ7年間過ごした群馬県の特別養護老人ホームから都内の病院に移った。生まれ育った街のにぎわいをかすかに感じられる病室で、今はただ静かに過ごしている。
地元に戻ってきた三重子さんのもとには、毎日のように、たくさんの人が訪れている。枕元に飾られた写真に写る幼なじみの女性。20代のころ、アナウンサーとして働いていたラジオ放送局の同僚たち。一緒に浅草の街を盛り上げてきた、商店街の「おかみさん組合」の仲間たち。言葉を交わすことはなくとも、同じ時間と空間を共有しながら、この街に戻ってきた喜びを分かち合っている。
2015年のはじめ、三重子さんの孫が生まれた。三重子さんに面差しの似た、かわいい女の赤ちゃんだった。
「見つかってくれて、孫にも会えて、本当によかった」
失われた約7年間を埋めるように、滋夫さんはきょうも病室に足を運ぶ。
(了。第1回から読む)