1989年8月7日、『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のテレホンショッキングに出演したジャイアント馬場(本名・馬場正平)が、翌日のゲストとして紹介し「友達の輪」を繋げたのが、三遊亭円楽(当時・楽太郎)だった。2人の知られざるエピソードを円楽が述懐する。
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あのあと、馬場さんに尋ねてみたんですよ。「ボス、なんでオレだったの?」って。そうしたら馬場さんは「オレは楽さんぐらいしか友達がいねえんだよ」と。どうしても大スターは周りからまつり上げられるじゃないですか。そういう意味で、みんななかなか馬場さんの懐に入っていかなかったけど、私は噺家だからそのへんは平気なのよ。
どこまで踏み込んでいけるか。土足で入っていったわけじゃないですよ。靴はちゃんと脱いでいたつもり。そのうえで馬場さんの懐に入っていく。
「32文ロケット砲をやろうよ」と言ったこともありますよ。
「もう、できないよ」
「寝たままだって32文はできるんだよ」
「なに!? 馬鹿にしてんのか」
「相手をロープに振ったら仰向けに寝て、戻ってきたところを両足で蹴るんだよ。それだって胸ぐらいには当たるんだから」
「そこまではやらないよ」
馬場さんも怒ってたけど、顔は笑ってましたね。
〈かくもリング外の馬場と濃密な時間を過ごしてきた円楽さん。思い出の品もさぞや数多く残っているのかと思いきや、一緒に写っている写真は1枚だけだという。アンドレ・ザ・ジャイアントとの“大巨人コンビ”の間に収まった、まさにお宝写真〉
馬場さんとの写真は本当にこれ1枚だけなんですよ。いつでも会える人だと思っていたから、あらためて撮ってないんですよね。何か記念の品物を残しておこうという考えもなかったし。以前、ゴルフのクラブを1本、もらったことはあるんですけど、それも引っ越しをしているうちに、どこかに行ってしまったようで。
絵を1枚描いてくださいとおねがいしていたんですよ。ただし、マッチ箱よりもちょっと大きいぐらいのサイズで描いてほしいと。馬場さんには「からかってんの?」と言われましたけど、あの馬場さんが小さい絵を描いている姿なんて、想像しただけで可愛いでしょ(笑)。
それに将来、馬場さんの絵に「1号いくら」って値段がついたとき、私が持っているのは実は半号だった、ということになったら面白いでしょう。馬場さんには「楽さんはそんなことばかり考えてるね」と笑われましたけどね。
たしかに思い出の品物は写真1枚だけですけど、これでよかったのかなと。心の中にはいくつもの思い出がありますから。馬場さんとの縁が各団体に広がっていって、今もいろんなレスラーが私と遊んでくれる
馬場さんは、私にプロレスという極上の趣味を与えてくれたんです。
取材・文■市瀬英俊
※DVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』第3巻より