国内

伝説の灘校教師「遊びながら学べ」を教え続けた101歳の生涯

 教科書は薄い文庫本一冊。超進学校の私立灘中・高校(神戸市)で、それをじっくり3年間かけて読み込み、生徒が自ら学ぶ力を育むという伝説の国語の授業──そんな究極のスロウ・リーディングを実践してきた橋本武先生が、9月11日、静かに息を引き取った。101歳だった。

 使っていた教科書は、作家・中勘助著の『銀の匙』だ。文中に出てくるひとつの言葉から、その成り立ちや関連語へと、ときには「国語」の垣根を越えて枝葉を自在に広げ、生徒たちの関心を高めていく。

 主人公がお菓子を食べれば教室でそれと同じものを配り、凧揚げをすれば、凧作りから生徒たちに取り組ませた。遊びながら学べば、生徒は学ぶことを好きになることを知っていた。

 著者本人の多感な少年時代を描いたこの作品の書名から、橋本先生の教え子は、“銀の匙の子どもたち”とも呼ばれるようになった。

 そこには作家の故遠藤周作氏や、東京大学総長の濱田純一氏、弁護士の海渡雄一氏など、錚々たる名前が連なっている。

 今から2年前の2011年6月。定年退職から27年を経て、橋本先生は再び灘校の教壇に立った。生徒は橋本先生の授業を受けたいと希望を出し、運良くその権利を得た灘中の2、3年生。橋本先生の生涯を辿った『奇跡の教室』(小社刊、2010年)の刊行をきっかけに、「死ぬ前にもう一度、『銀の匙』の授業をしたい」という思いが実現したのだ。

 冒頭、橋本先生は、「『銀の匙』の授業は、傍観するのではなく、入り込んで一緒にやっていく授業です。それは“遊ぶ感覚”です。見ているだけでは面白くない」と語り出すと、おもむろに黒板に文字を書いた。

<あそぶ>それに並べて、<まなぶ>

「遊ぶと学ぶ。この二つに共通するものはなんですか。どんなことでもいいから、言ってみなさい」

 一番後ろに座っている生徒が手を挙げた。

「遊ぶのは好きだけど、学ぶのは嫌い!」

 橋本先生が意を得たりという表情をする。

「遊ぶように学んだらいいでしょう。はい、ほかに気がついたことは?」

 今度は前の方に座っていた生徒が答える。

「三文字目がどちらも『ぶ』です」

 よろしい、と橋本先生。

「では、その『ぶ』を省いたらどんな意味になるか。『あそ』。これは山の名前です。熊本県に、阿蘇という山があります。それから海の名前です」

 橋本先生は、自らの出身地に近い天橋立(京都)の名を出す。

「そこにある内海も、阿蘇と言います。山の名前や海の名前に、『ぶ』がつくことで、言葉が広がりを持っていく」

 そして黒板にこう書いた。

<ぶ動詞コレクション>

「遊ぶも学ぶも最後に“ぶ”がつく動詞です。では、同じように“ぶ”がつく動詞、『ぶ動詞』を書き出してみなさい。どれくらい思い出せるか。これが現在、君たちの持っている国語力です」

 生徒たちは一斉にペンを持ち、ノートに「ぶ動詞」を書き出していく──。

 生徒たちに、橋本先生は「君たちは」と呼びかけ、答えに納得すれば「よろしい」と返し、宿題は「提出せよ」と命じた。80歳以上離れた生徒を決して子供扱いしなかった。

 最後にお会いしたのは2012年8月、100歳を迎えた翌月だった。話は、2011年の特別授業を受けた“銀の匙の子どもたち”に課した宿題に及んだ。『銀の匙』の物語のように、少年期の思い出を文章にすることを課していたのだ。

「生徒たちには製本して返す約束でしたが、今、どうなっていますか」と尋ねると、「まだ手を付けていません、色々と忙しくてね」と笑った。

 多忙であることは元気でいる秘訣なのだろう。「悠々自適としないこと」も心がけていたことだった。

 忙しく、遊びながら、学べ。世代を超えて“銀の匙の子どもたち”に伝えたことを、最後まで貫いた。

●取材・文/片瀬京子

※週刊ポスト2013年10月4日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

森高千里、“55才バースデー”に江口洋介と仲良しショット 「妻の肩をマッサージする姿」も 夫婦円満の秘訣は「お互いの趣味にはあれこれ言わない」
森高千里、“55才バースデー”に江口洋介と仲良しショット 「妻の肩をマッサージする姿」も 夫婦円満の秘訣は「お互いの趣味にはあれこれ言わない」
女性セブン
【悠仁さまの大学進学】有力候補の筑波大学に“黄信号”、地元警察が警備に不安 ご本人、秋篠宮ご夫妻、県警との間で「三つ巴の戦い」
【悠仁さまの大学進学】有力候補の筑波大学に“黄信号”、地元警察が警備に不安 ご本人、秋篠宮ご夫妻、県警との間で「三つ巴の戦い」
女性セブン
どんな演技も積極的にこなす吉高由里子
吉高由里子、魅惑的なシーンが多い『光る君へ』も気合十分 クランクアップ後に結婚か、その後“長いお休み”へ
女性セブン
《視聴者は好意的な評価》『ちびまる子ちゃん』『サンモニ』『笑点』…長寿番組の交代はなぜスムーズに受け入れられたのか?成否の鍵を握る“色”
《視聴者は好意的な評価》『ちびまる子ちゃん』『サンモニ』『笑点』…長寿番組の交代はなぜスムーズに受け入れられたのか?成否の鍵を握る“色”
NEWSポストセブン
わいせつな行為をしたとして罪に問われた牛見豊被告
《恐怖の第二診察室》心の病を抱える女性の局部に繰り返し異物を挿入、弄び続けたわいせつ精神科医のトンデモ言い分 【横浜地裁で初公判】
NEWSポストセブン
バドミントンの大会に出場されていた悠仁さま(写真/宮内庁提供)
《部活動に奮闘》悠仁さま、高校のバドミントン大会にご出場 黒ジャージー、黒スニーカーのスポーティーなお姿
女性セブン
『教場』では木村拓哉から演技指導を受けた堀田真由
【日曜劇場に出演中】堀田真由、『教場』では木村拓哉から細かい演技指導を受ける 珍しい光景にスタッフは驚き
週刊ポスト
日本、メジャーで活躍した松井秀喜氏(時事通信フォト)
【水原一平騒動も対照的】松井秀喜と全く違う「大谷翔平の生き方」結婚相手・真美子さんの公開や「通訳」をめぐる大きな違い
NEWSポストセブン
足を止め、取材に答える大野
【活動休止後初!独占告白】大野智、「嵐」再始動に「必ず5人で集まって話をします」、自動車教習所通いには「免許はあともう少しかな」
女性セブン
裏金問題を受けて辞職した宮澤博行・衆院議員
【パパ活辞職】宮澤博行議員、夜の繁華街でキャバクラ嬢に破顔 今井絵理子議員が食べた後の骨をむさぼり食う芸も
NEWSポストセブン
今年1月から番組に復帰した神田正輝(事務所SNS より)
「本人が絶対話さない病状」激やせ復帰の神田正輝、『旅サラダ』番組存続の今後とスタッフが驚愕した“神田の変化”
NEWSポストセブン
大谷翔平選手(時事通信フォト)と妻・真美子さん(富士通レッドウェーブ公式ブログより)
《水原一平ショック》大谷翔平は「真美子なら安心してボケられる」妻の同級生が明かした「女神様キャラ」な一面
NEWSポストセブン