それほど批評力があるのに、自己と社会、つまり家や学校との関係に関しては何ら批評できていないんですね。例えば私は永山則夫の『無知の涙』を大学生の時に読んだんですが、自身の貧困を近代の構造的背景を踏まえて見つめ、その中で構造的に出現した最底辺の人々の魂や避けられない自我の露出、そして悲しみを、深度をもって書いているのが凄いと思った。
一方Aの場合はごく一般的な中流家庭に育ったものの、神戸では俗にスライスハム方式といって、わずかな内申点の差で高校が決まり、中流の中に格差が出現するシステムが現にある。彼にはそこから弾かれたアウトカーストであるという自覚があって、父親が自衛隊へ行けと言い、それも厭だという時に、独自の世界観を創り上げ、欲望に生きるカードを切ったんだと思うんですね。
その誰にも傷つけられない世界に逃げ込む切羽つまった感じは当時の中学生心理を象徴していただろうし、1995年1月に阪神淡路大震災が起き、3月に地下鉄サリン事件が起き、1997年に彼が事件を起こす1990年代という時代を、彼ほどの観察眼があればもっと分析的に書けたはずなんです。
■聞き手/橋本紀子(ライター)
※SAPIO2015年6月号