とにかく他人の時間を奪うことに敏感な時代になった。たとえ、その時間にポカンと口をあけていたとしても、くだらないゴシップのネットサーフィンをしていたとしても、それはその人の自由で他人にそれを支配される筋合いはないのである。メールにおいては、定型の挨拶やら天気の話題を書いてあると、「それを読まなければならない時間が無駄」という考えさえある。わからないでもない。前置きばっかり長いメールって、それだけで仕事ができなさそうに見えるし。
私が取り扱っている原稿という商いは、心の中のわりと生な部分をお渡しするものだ。それを顔も声もわからず会話もしたことのない人にポンと差し出すのは、なんとなく不安になる。メールのやりとりを会話とは、やっぱり思えない。なので、多少のボリュームのある仕事の時は、顔を合わせての打ち合わせを希望するし、それができなくても必ず一度は電話で話すように心がけ、編集者をそう仕向けていた。いた、と過去形なのは、形式的に声だけを確認してみたところで、相手のことは大してわからないと悟ったからだ。
電話に関する意識が変わったのは、仕事の時だけではない。
季節が変わる度に、とあるセレクトショップから電話がかかってくる。スカートを一着とセットアップを一揃い買ったことがあるだけだが、丈の直しに出した時に携帯電話の番号を教えた。以来、唐突に電話があって、「秋冬物(もしくは春夏物)が入荷しましたので、ぜひお立ち寄りくださいませ。今シーズンは○○が充実しておりまして~~~」とたいてい同じようなセリフを述べられる。私の顔なんかわからず、機械的に話しているに違いない。
この電話を受け取った時、「電話はいきなり他人の時間を奪うもの」を肌身で強く実感した。こんなのDMでいいじゃん。出られなかったら、留守番電話にこれもまた同じようなセリフのメッセージが残っている。さらに気が重くなるだけで、店に行きたい気持ちは生まれない。はっきりいって、これ、逆効果ではないだろうか。
暑苦しいとされるバブル世代の私でさえ、電話をかけられることへのプレッシャーがあるのだ。「な、7回目のベ、ルで受話器をとった君~」と宇多田ヒカルが歌ってから、はや二十年。平成は終わろうとしている。