そもそもノビチョクとは旧ソ連で開発された化学兵器であり、当時のNATO(北大西洋条約機構)の化学物質検出装置で検出されないように作られたと言われ、原因の特定が難しい。上記のシーンでは、毒物の解析をめぐって、警視庁刑事部と公安部の「縦割り」の弊害についても描写されている。
『エアー2.0』や『巡査長 真行寺弘道』と言った話題作を発表し続けている榎本氏の最新書き下ろし小説『DASPA 吉良大介』は、テロをはじめとした国家の非常事態に的確に対応するため内閣府に設置された各省庁からの選抜精鋭チームDASPA(国家防衛安全保障会議)の一員に選ばれた警察キャリア官僚・吉良大介が、日本国内で発生したノビチョクによる暗殺事件をめぐって、「縦割り」を打破し、真相を暴き、国家の危機に立ち向かうというストーリーだ。
〈「まずこの事件で、我が国の安全保障の危険水域が上がったことをアピールするんです。ロシアのGRUが国外で殺人を犯すという事件はありました。ただこの手の殺しはすべてヨーロッパ圏内でおこなわれています。日本にとってはこれが初のケースです」
「それでこの事件をDASPAの案件にしろってか。それは結構ハードルが高いぞ」
「けれど、事件の端緒をつけたのは紛れもなくDASPAですよね。DASPAの科学兵器開発班がノビチョクだと見破ったんです」〉(小説『DASPA 吉良大介』より)
はたして今の日本で同様な事件が起きてしまったら、迅速かつ的確に対応できるのだろうか? 榎本氏はこう分析する。
「できないでしょう。極東の島国である日本は、距離によって安全が保たれていた部分は確かにあったと思います。そして、それは日本人に安心感を与えてきた。けれど、こういう密かな暗殺計画には、距離による安全はほとんど機能しません。さらにインターネットによる攻撃はこの距離を一気につぶしてしまいます」
榎本氏といえば、2015年に『エアー2.0』によってオリンピックに向けて建設中の新国立競技場の爆破事件をテーマに近未来社会を描き、大藪春彦賞候補になるなど、時事的なテーマを先見的な視点で描いた斬新な作品を発表し続けている。
そして今回も、ノビチョク事件を予見するかのようなタイミングでの新作刊行となった。いずれにしても事件が起きないに越したことはないが……。