当時は論文を連名で出す習慣がなかったため、湯川は単名で発表。1949年には日本人初となるノーベル物理学賞を受賞するが、朝永の存在なしには実現しなかったかもしれない。
「一方で、2人はお互いをライバルとして意識せざるをえない環境にもあったと思います。湯川先生がノーベル賞を受賞したとき、理研の仁科先生は『湯川君を採っておけばよかった』と朝永先生に聞こえるように嫌味を言ったそうです。朝永先生も1965年にノーベル賞を受賞したことで、並び立つ存在になりました。
2人は物理学者としてタイプが全く異なり、湯川先生が直感を重視するのに対し、朝永先生は常に論理的に研究を進める。この2つのタイプが東西に分かれていたことが、日本の物理学界の発展に繋がりました」(同前)
2人に憧れて物理学者を志し、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏は、〈湯川と朝永の対比はデザイナーと職人に例えることもできるかもしれない。このように性格は異なる2人だが、物理学の世界では両タイプが必要とされる〉(日経サイエンス「湯川と朝永から受け継がれたもの」)と語っていた。同時代に2人が揃った奇跡である。
※週刊ポスト2021年4月30日号