定年がない仕事の「引き時」というのは難しいものです。人は定年があるから、個人の葛藤は別として、平穏に職場を去っていくのだと思います。
私自身も、引き時は考えています。それは、書き残したいテーマを書き終えた時。もしあと2~3年の寿命に恵まれたら、書き残しておきたいテーマがあるんです。もう準備は始めていて、今はこれが生きるエネルギーになっています。とはいえ、結局のところ、有名無名にかかわらず、我々は注文が来なくなった時が引き時。だから、佐藤先生のように存命中に余力を残して断筆を宣言できるかたは、残念に思いつつも、本当に幸せだと思います。
一方で、すごく楽観もしているんです。文筆業は、自分はもう書かないと決めても、著書は残ります。中には一定の影響力を持つ作品も。例えば、夏目漱石は49歳で多くの著作を残して亡くなりましたが、夏目漱石は今でも死んでいません。佐藤先生も、たとえ書かなくなったとしても、確実にこれから先も長く生き続けます。
みなさんには、日本の出版界における、ここ10年ほどの90代女性の文筆家たちの活動を記憶しておいていただきたいと思います。佐藤愛子先生をはじめ、多様な分野の著名女性たちが長い人生を振り返り、それぞれの持ち味、専門を生かして、かつてなかった長い寿命、老いの生き方に大きな示唆を与えてくださいました。一人一人誠実にご自分の人生に向き合いながら、読者に問いかけてくださいました。佐藤先生はその中の大スターです。
「人生100年時代」という人間の新しい生き方の始まりです。それに最初に気づいたのは男性より平均寿命が長くて少子化の影響をいち早く感じとった女性の側でした。今、男性もこの新たな長寿社会に向き合いつつあります。21世紀の人間の課題の一つは明らかに「老いをどうするか」です。だからみなさん、がっかりする必要はありませんよ。佐藤愛子は永遠です。
【プロフィール】
樋口恵子(ひぐち・けいこ)/1932年生まれ。評論家、NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長、東京家政大学名誉教授。『老いの福袋 あっぱれ!ころばぬ先の知恵88』など著書多数。
※女性セブン2021年8月19・26日号