10月1日に他界した不世出のプロレスラー、アントニオ猪木さん(享年79)。死後、彼の全盛期の思い出を語る関係者は多いが、無名時代を知る人は少ない。その1人が猪木さんの師・力道山の妻で未亡人となった田中敬子さん(81)だ。10月15日、ノンフィクション作家の細田昌志氏が、亡き夫の眠る東京・池上本門寺で墓参りを終えた直後の敬子さんに、猪木さんとの60年に及ぶ交流について聞いた。【全4回の第4回。第1回から読む】
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弟との関係修復を仲介
最晩年までアントニオ猪木との交流が続いた敬子未亡人。実は猪木家の兄弟仲の修復に尽くした挿話も明かしてくれた。
──猪木さんとの長い付き合いのなかで、最も印象に残っている出来事は何でしょう?
「主人の五十回忌をホテルオークラでやったとき、猪木さんは議員に返り咲いた頃でしたが主賓を引き受けてくれたんです。お坊さんがお経をあげているときに、いつになく神妙な顔をしていて“猪木さん、何を考えてるんだろう”って。その顔が印象的ですね」
──「力道山の後継者」というと「馬場さん」と言う人もいますが、敬子さんはどう思いますか?
「後継者は猪木さんでしょう。主人があのまま生きていても、猪木さんを後継者に据えたと思います。だから猪木さんをずっと手許に置いた。馬場さんのことはあくまでもレスラーとして期待した。身体も大きいし、自分にないものを持っている。それで早くに海外に送った。それはそれで凄いことですよ。だって馬場さんはアメリカで大成功を収めたんだもの」
──1ドル360円の時代に、週8000ドルを稼いでいたんですからね。
「そうです。ただ、猪木さんに対しては『俺をよく見とけ』って感じでしたから、接し方が正反対。だって、猪木さんが事業に手を出したのは明らかに主人の影響ですから」
──そうなんですね。
「猪木さんもインターナショナルスクールを経営していたでしょう。実は主人がそうでした。『国際的な教育機関を日本中に作りたい』って常々言ってて、猪木さんは主人の肩を揉みながらその話を聞いてました。影響を受けないはずがないんです」
──その猪木さんが力道山未亡人の敬子さんと終生交流があったのが、太い縁を感じますね。
「普通なら年を追うごとに疎遠になっていくものだけど、猪木さんとは逆で、往来が頻繁になったんです。実は猪木さんは弟の啓介さんと少し疎遠だった時期があって……。ほら、兄弟ってどこの家庭もいろいろ難しいでしょう(苦笑)。ある日、啓介さんと一緒にいるとき、猪木さんの携帯電話を鳴らしたことがあって」