ついに羽生の七冠達成を許した谷川(左)
「シャッター音は背後から」の屈辱
谷川さんは1996年の王将戦で再び羽生さんの挑戦を受け、羽生さんの七冠制覇を許している。全国的な盛り上がりを見せた「羽生フィーバー」のなかで、谷川さんは常にアウェーの戦いを余儀なくされた。当時、タイトル戦の対局場で顔を合わせた谷川さんが、苦笑しながら僕にこんなことをポツリと言った。
「後ろに感じるんですよね……」
カメラマンは常に羽生さんの表情を狙っているから、位置取りは必然的に谷川さんの背後に回ることになる。シャッター音が常に後ろから聞こえてくるという屈辱に、谷川さんは耐えなければならなかった。
羽生さんが七冠を達成してからも谷川さんはトップ棋士の座を守り続けたが、いわゆる「羽生世代」の本格的な台頭を迎えると、タイトル戦線から遠ざかるようになる。
人間味のある谷川さんの写真を撮れるようになったのは、むしろ円熟期に入った2000年代以降のことだった。羽生さんとの激闘の時代を語る言葉にも、かつては少なかった本音が含まれるようになり、味が出てくるようになった。
円熟期に入った2000年代以降、「本音」を語ることが増えた印象がある
近年、谷川さんが藤井さんについて綴った『藤井聡太論 将棋の未来』(講談社+α新書、2021年刊)がベストセラーになった。世代交代を受け入れ、タイトルを目指す棋士としてのプライドに一区切りをつけた谷川さんからは、これだけ自由な言葉が出てくるのかと僕はある種の感動を覚えた。
棋士が相手を称賛することは、自分の弱さを認めることでもある。長きにわたり第一線で活躍してきた谷川さんは、ようやくここにきて、ある種の自由を手に入れたのだろう。僕はいま、谷川さんの写真をいちばんうまく撮れるような気がする。
※弦巻勝『将棋カメラマン 大山康晴から藤井聡太まで「名棋士の素顔」』より一部抜粋・再構成
【プロフィール】
弦巻勝(つるまき・まさる)/1949年、東京都生まれ。日本写真専門学校を卒業後、総合週刊誌のカメラマンに。1970年代から将棋界の撮影を始め、『近代将棋』『将棋世界』など将棋専門誌の撮影を担当する。大山康晴、升田幸三の時代から中原誠、米長邦雄、谷川浩司、羽生善治、そして藤井聡太まで、半世紀にわたってスター棋士たちを撮影した。“閉鎖的”だった将棋界の奥深くに入り込み、多くの棋士たちと交流。対局風景だけでなく、棋士たちのプライベートな素顔を写真に収めてきた。日本写真家協会会員。
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