1929年にはハーグ対独賠償会議で対立したイギリスとフランスが、当時、在フランス大使だった安達に調停を依頼。彼は日本流の茶会を開き、両国代表を和解させたという逸話がある。
1930年には国際司法裁判所判事の選挙に出馬。当時の欧州の列強を抑え、52か国中49票を得てトップ当選する。翌年には判事選で第4代国際司法裁判所長(裁判長)に選出された。アジア人として初の栄誉だった。
だが時を同じくして日本では軍部の暴走が始まり、満州事変へと進んでいく。苦悩した安達は、当時の首相・斎藤実と元首相の若槻礼次郎に戦争回避を説いた。
「当時の日本は軍部の力が強く、首相もなすすべがなかった。そんな厳しい状況でも、欧州人は安達の活動に注目していた」(同前)
しかし、期待に応えることはできなかった。1934年、暴走する祖国との板挟みになった安達は心臓と精神を病み、オランダにて65年の生涯の幕を下ろした。
(文中一部敬称略)
※週刊ポスト2016年1月1・8日号