そこで考えたい問題がもうひとつある。「麺をすする音」の定義である。果たして誰もが同じ音を想起して「快」「不快」を論じているのか。
否、である。
僕自身は他人が麺をすする音について、特に気にしてこなかった。ラーメン屋でも蕎麦屋でも音を立てて麺をすするのは当たり前だと思っていたし、自分も音を立てて麺をすする。それもできれば格好よくすすりたい。だから「ザッ」と一気に短くすする。イメージとしては竹ぼうきで小さな砂利を掃くときの音に近いかもしれない。ちなみに、やたらに轟音を立てるのも気がひけるので音はやや小さめだ。
ところが最近、蕎麦屋やラーメン店で「ズゾズズズ……ゾゾーッ!」というように長々と麺をすすっている人がいる。そういう人に限って音を立てるのを良しとしているのか、すする音量も大きい。アレは確かに不快だ。日本人の麺の食べ方がヘタになっているような気すらする。
「麺をすする」というのは非常に個人的な行為だ。家庭でも伝承されて来なかったろうし、「音を立てる/立てない」という個人の趣味・嗜好にまで踏み込む以上、もちろん学校などの教育の現場でも教えられることはない。そうして今日も「ズゾズズズ……ゾゾーッ!」という音はラーメン店や蕎麦屋にこだまする。
すする側がどんなに「粋」だと思っても、不快だと感じる人はいる。ましてや、麺好きですら嫌悪するような音は、「さもありなん」というマインドの形成に一役買う。概念としての存在も確認できない「ヌーハラ」の既成事実化には、度を越した不快音も一役買っていた。「ヌーハラ」というよくわからない言葉を見かけるたびに、そんなふうに思えて仕方ないのだ。