現場を無視した精神主義的体育会系の滅茶苦茶な命令に、命を賭して抗命した中将の姿は、現代日本の様々な企業組織の暗部にも通じるのではないか。ア氏は言う。
「東インドに侵攻してきた日本軍に、私たちは悪意など持っていない。私たちは何百年もイギリスに虐げられてきた。だから病で動けなくなった日本兵を、英軍の目を盗んで自宅に匿って看病した村人が沢山いる」
帰路、インパール市郊外のボース銅像の立つ記念館に寄った。ボースはコルカタ出身だが、インパールに侵攻した日本軍の先鞭となってインド国民軍(INA)を率いた。
ボースは日本を利用してインド独立を企図し、ナチスドイツにも接近した。しかし、その望みは日本の敗戦とともに潰え、終戦直後台湾で航空機事故死した。ボースは、ガンジー、ネルーと並ぶインドの三傑である。
インパール作戦の失敗によって、辛うじて拮抗していたビルマ戦線は崩壊。日本軍を追撃した英軍は、ビルマ最大の拠点ラングーンに迫った。インド・ビルマ戦線全域で死亡した日本兵は17万とも18万ともいう。
まだその多くの遺骨が、このインド東部の鬱蒼とした青い山野に眠っている。整然と整備された連合軍戦没者墓地に埋葬された英印兵とは対照的に、いまだ所在分からぬ土の中に眠る日本兵は私たちに、二度とこのような無謀な作戦が実行されることのないよう、怨念の如き声なき声を発しているかのように思えた。高い経済成長や、IT、映画産業ばかりが耳目を集めるインドにあって、インパールとコヒマではただの一人の日本人にも遭遇しない。
歴史から学ぶとは、ただ書を読むことではない。その地に赴き、その地の在り様を皮膚で感じることだと私は思う。インパールの山野は、73年前と変わらず、まるで私たちに過去からの猛省を促すように、ただ静かに黒々と蒼いのであった。
※SAPIO2017年9月号