それらの私擬憲法は、いずれも権力の行使に制限を加えるように書かれている。例えば植木枝盛の憲法草案では、「日本の国家は日本各人の自由権利を殺減する規則を作りてこれを行うことを得ず」として、国が個人の自由権利を制限する法律を制定・施行することを一切禁止している。
薩長藩閥政府の権力と戦うことを目的とした自由民権運動の中から作られたのだから当然とも言えるが、憲法は国家権力を縛るものだという本質をはっきり認識していたのであり、それに比べれば、明治憲法は中江兆民が「不具の憲法」と呼んだように、権力を縛るには不十分なものであった。翻って130年後の現在を見ると、どうか。
自民党の改憲草案は「憲法は国家権力を縛るもの」という基本すら理解しておらず、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」だの「家族は、互いに助け合わなければならない」だのと、国家が国民に命令する条文がいくつも入っている有り様である。
明治に比べて現代の憲法草案の方が、遥かに幼稚で劣化している。「近代化」や「文明化」が人間を進歩させるということなど、決してないのだ。日本は未だ「押しつけ憲法」しか持ったことがない。いま改憲を論議するなら、今度こそ押しつけでない憲法を作るべきであり、そのためには我々はまず、明治の私擬憲法に立ち返ってみるべきだろう。
※SAPIO2017年9月号