中野学校で訓練された士官たちが沖縄の地に降り立ったのは昭和19年9月13日のことだった。秘密部隊結成の任を負う男たちだから全員が普段着だった。その中にひときわ目付きの鋭い男がいた。護郷隊を指揮することになる、当時23歳の村上治夫中尉(後に大尉)である。村上は第三十二軍が玉砕したあとも潜行してゲリラ戦を続け、大本営へ戦況、諜報を伝える任務を負っていた。
村上はわずか1か月余りで少年たちを集めて訓練し、半年後、米軍が沖縄に上陸するとゲリラ戦を展開することになる。十代の若者たちは泥沼のゲリラ戦へと身を投じていくこととなった。
◆銃は「2人で一丁」だった
護郷隊はほとんど訓練らしい訓練も行われず、鉄血勤皇隊(※注)に比べて武器などの軍備にも乏しかった。銃は2人で一丁だったため交互で撃つしかなかったし、軍靴さえなく最後は軍服にも事欠く状況だった。
〈※注/沖縄で編成された少年兵部隊。「第三十二軍」の正規部隊として2000人近くが動員され、ほぼ半数が戦死した。〉
昭和20年4月1日、ついに米軍が沖縄本島中西部の海岸線から上陸し北上をはじめた。護郷隊はやんばる(沖縄本島北部の山林地域一帯を指す)で戦闘を開始。雨風をしのぐだけの粗末な壕を築き、山に潜んで米軍の様子を偵察したり、民間人になりすまして敵情視察を行ったり、侵入してきた米兵と撃ち合うこともあった。
そして4月17日、米軍が拠点を構築している真喜屋、稲嶺地区に火を放つ命令が護郷隊に下る。護郷隊の少年たちにとっての故郷である。