少年たちは〈一軒の空き家でも米軍に渡してしまえば利用されてしまう。燃やしてしまうほうがいい〉〈焼き払えという命令なんだ〉と自分に言い聞かせ、「逃げろ! みんな逃げろー」と住民に叫びながら一軒一軒に火をつけてまわったという。
故郷を護るために戦っているのに、なぜ故郷に火をつけなければならないのかそんな葛藤があったことは想像はできるが、彼らの本当の胸の内は実際に戦ったものにしかわからないだろう。
村上にしても彼らの故郷を焼き払う命令は苦渋の行為であったのだろう。村上は沖縄戦で敗れることを覚悟しており、少年兵たちには密かに「この戦いは勝ち目がないから無理して死ぬな」と厳命していた。
護郷隊は解散するまで第一が91名、第二が71名の戦死者を出した。数が大きく膨らまなかったのは、村上が少年たちには危ない任務をさせない方針だったからだった。
村上は沖縄戦で敗北した昭和20年6月23日のあとも残って抗戦を続け、翌21年1月3日まで潜伏した。故郷に戻った護郷隊員はしばしば村上の拠点を訪問して食料を持ち込んだり、状況を報告したりするなど村上と頻繁に接触を持っていた。
実は護郷隊召集後の訓練期間中、村上は軍事教育以外の社会教育を施す「村上塾」を行ってもいた。村上と護郷隊員、その家族との交流は深かった。
そうした交流は戦後も毎年、護郷隊の慰霊祭に訪れるなど、村上が平成18年(2006年)5月に鬼籍に入るまで続いた。実際、取材した元隊員で村上を悪くいう人は誰一人としていなかった。隊員と村上との信頼関係があったからこそ、彼らは過酷な任務にも逃げ出すことなく戦い続けることができたに違いない。